ミステリー好きな人なら誰もが知っている小説家、森博嗣さんを著書『森博嗣の常識にとらわれない100の講義』が最高だった。



森先生は、『すべてがFになる』というタイトルでドラマ化されたS&Mシリーズが有名。(S&Mとは、主人公の犀川創平と西之園萌絵のファーストネームのイニシャル「S」と「M」のことで、ドラマでは綾野剛さんと武井咲さんが演じている)



1年ほどまえに『すべてがFになる』を読んで、「この人頭よすぎ!」と衝撃を受けた。事件のトリックがあまりにも専門的で、全く「なるほど!」と思えないのに、物語に引き込まれて、ついつい読んでしまうから不思議。

『森博嗣の常識にとらわれない100の講義』は、タイトルからもわかる通り小説ではなく、森先生が普段考えていることを書いた本。森先生の考え方がななめ上すぎて最高。電車の中で読んでて、人前で吹き出しそうになったり、ニヤニヤを抑えるのに必死だった。

森先生は、ご自身も認めているけれど、普通の感覚みたいなものを持ち合わせていないよう。とにかく視点が独自すぎる。だけど「全然気がつかなかったけど、確かにそうだわ」と納得できるんできる。そういう意味で常識をぶちこわしてくれる一冊。



気になったところを抜粋。

常識を疑わない人は、つまり素直でないからできるのである。
道理や人情や自分の気持ちに素直になれば、必然的に常識というものに懐疑的になるだろう、と僕は考えている。だから、常識を鵜呑みにして疑わないのは、素直ではない証拠だ。



たとえば、子どもは常識を知らないし、常識はずれのことをする。これは素直だからである。大人になるほど、素直ではなくなり、道理というものを考えなくなり、人情についても割り切るようになって、自分の気持ちも既に表に現れない状態に至る。



こういう人が常識に固執するのだ。ルールさえ守っていれば、それで生きていける。「自分はきちんとレールの上を走っているのだから、文句があるか」といったところだろう。



常識の路線にのっていれば、とにかく摩擦がなくて「楽ちん」だし、常識人の間では「見識のある人」と持てはやされるから、自分というものが安定する。そういう自信に満ちあふれた人って、沢山いるじゃないですか。



僕は自分の筋の方が大事だと信じて、それを通してきた。僕は素直で正直な人間だと自分のことを思っている。言い方を換えると、僕は「素直でない」ことができない。その能力に欠けていたのだ。





確かに常識を疑わずに生きていくのはすごく楽。大人の言うことを聞くと、「素直でえらいわね」ってほめてもらえる。怒られなくてすむ。会社でも、上司の言うことすべてに「そうですよね」、「はいわかりました」という人間はかわいがられる。目をつけられることもない。

だけどそれは結局、「大人にとって都合のいい人間」であって、「素直」ではない。


自分に素直でない人は、ずっと自分の気持ちに嘘をつき続けている。「本当は他にやりたいことがあるのに」「本当はこんなめんどうくさいことしたくないのに」と思いながらも、やらないと怒られるから、やる。常識だから、やる。

そうやって自分に嘘をつき続けると、「自分のやりたいことがわからない」という状態になる。そして自分探しの旅に出たりする。以前のわたしのように。


本当は大人になれない(なりたくない)のに、無理して大人の考えを当てはめようとするから苦しくなる。あるときから大人になろうとするのをやめて、「子どもですから」と割り切ったら、すごく楽になった。おかげでよく怒られるけれど、そのたびに「ああ、わたしは今、自分の気持ちに正直に行動できているんだな」とうれしくなったりする。





自分に嘘をついていいことなんてひとつもない。そんなことをしていたら、自分に正直に、楽しそうに生きている人を妬んで、「なんだあいつは!」と怒って、常識のない人を非難するような人間になってしまう。

自分の気持ちに正直に生きると、人に優しくなれる。人の振る舞いが、気にならなくなる。



早く大人にとって都合のいい「素直」から抜け出して、もっと自由に生きられる人が増えたらいいなと思う。そのきっかけになる本かもしれないから、ぜひ読んでみてほしい一冊。




シリーズ化されているみたい。これも、すごく読みたい。


これも。
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最近のわたしは、訳もなく、根拠もなく、自分のことを「最高!」と思うことにしている。なぜなら現実は100%自分の思った通りにできていると、この本を読んで知ったから。


現実は100%自分の思った通りにできているということは、思考から現実が生まれるということ。なので「最高!」と思える根拠や理由がなくても、先に「最高!」と思ってしまえば、実際に「最高!」と思える現実がやってくる。

自分のことを「最高!」と思うようになると、「わたしはなにがあっても大丈夫」という根拠のない自信が生まれる。未来に対する不安が一切なくなり、「まあなんとかなるでしょ」と大きく構えていられる。これに気付いてから、おもしろいことが次々と起こった。

 

 

わたしは昨年、『自分をつくる学校』という、セルフブランディングをテーマにした学校に通っていた。来週、60名ほどの卒業生が集まって忘年会が行われるのだけど、その司会をやりませんか?というお誘いに、「はいやります」と二つ返事で答えた。

わたしは「人前で話せるようになりたい」とは常々思っていて、それには経験が必要ということもわかっていた。けれどどうにもこうにも緊張してうまく話せないので、人前で話す機会をなるべく避けて27年間を過ごしてきた。だからこの決断は、わたしにとっては大きな進歩。不思議と不安な気持ちは一切なかった。

「わたしは何があっても大丈夫」という、自分に対する(根拠のない)絶対的な自信を持っていると、「今までやりたかったけど怖くて挑戦できなかったこと」にいとも簡単に取り組めるようになる。これはわたしにとっては大きな気づきで、ああこうやって、人はチャンスというものを掴んで行くのだなあと実感した。


臆せず色んなことに挑戦している人は、「わたしは○○が得意だから」「わたしは○○ができるから」みたいな、自分のスキル的な部分に自信があるわけではない。そういう人たちは、自分の存在に対する自信がある。「失敗したって大丈夫」「バカにされたって平気」「わたしは何があっても大丈夫」と思っている。



以前参加した和田裕美さんの「わくわく伝染ツアーFINAL」で、和田さんが「自尊心があがると、決断ができるようになる。だから、日々の“よかった”探しをして、“自分はできるんだ”という自信を積み重ねていこう」と言っていたけれど、通じるところがあるなあと思う。

「やりたいことがある。だけど自信がないから挑戦できない」という人は、根拠もなく自分のことを「わたしって最高」と思うところから初めてみてはいかがでしょう。中途半端にではなく、徹底的にイタい人になってしまうのがオススメ。

実感地としては、早くて1日で効果がある。1週間も続けていれば、現実が変わりすぎておもしろくなってくる。そして思ってもみないところから「今までやりたくても怖くてできなかったことに挑戦するチャンス」が舞い込んでくる。





「現実は100%自分の思った通りにできている」というのは真実で、この法則を自分のものにしてしまえば、人生をコントロールすることは可能。コツは、すでにそうであるかのように振る舞うということ。わたしは自分のことを「プロのライターだ」ということにしてから、みんなに「プロだね!」と言われるようになった。
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結構今更だけど、山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』を読んだ。


わたしはおもしろい小説には2種類あると思っていて、ひとつは物語的におもしろくて、その世界に入り込んでしまうもの。個人的には半沢直樹シリーズの『オレたちバブル入行組』や、『清洲会議』、『ハリーポッター』などがそう。

もうひとつは自分の価値観や生き方に影響を与えるような本。『ぼくは勉強ができない』は、まさにわたしの価値観にガンガン影響を与えてくれる本だった。  



《あらすじ》
主人公の秀美は男子高校生。女の子にモテるけれど勉強はできない。父親はおらず、男遊びと消費癖が激しい母親と、散歩の途中に出会うおばあちゃんにしょっちゅう恋をして秀美に相談を持ちかける祖父と3人で暮らしている。

そのような環境で育てられたからか、秀美はいわゆる「普通の価値観」というものを持ち合わせていない。成熟した考えをもっていて、「自分は自分」と、周りに媚びることなく自由な思考を持ちながら生きている。

そんな秀美が家族、恋人、友人、教師との関係を通じて思うこと、感じることが、大きな気付きを与えてくれる。これは小説の形をした自己啓発書、いやむしろ哲学書だと思う。



「これヤバい!」と思う部分をまとめてみた。


幸福に育ってきた者は、何故、不幸を気取りたがるのだろうか。不幸と比較しなくては、自分の幸福が確認できないなんて、本当は、見る目がないんじゃないのか。 
母親がひとりで、親と子どもの面倒を見ているというだけで、ぼくは、不幸な人種として見詰められていたのだ。父親がいない子どもは不幸になるに決まっている、というのは、人々が何かを考える時の基盤のひとつにしかすぎない。そこに、丸印、ばつ印を付けるのは間違っていると、ぼくは思うのだ。父親がいないという事実に、白黒は付けられないし、そぐわない。何故なら、それは、ただの絶対でしかないからだ。
ぼくは、昨日のテレビ番組を思い出した。子どもを殺すなんて鬼だ、とある出演者は言った。でも、そう言い切れるのか。彼女は子どもを殺した。それは事実だ。けれど、その行為が鬼のようだ、というのは第三者が付けたばつ印の見解だ。もしかしたら、他人には計り知れない色々な要素が絡み合って、そのような結果になったのかもしれない。明らかになっているのは、子どもを殺したということだけで、そこに付随するあらゆるものは、何ひとつ明白ではないのだ。ぼくたちは、感想を述べることはできる。けれど、それ以外のことに関しては権利を持たないのだ。

人殺しはいけない。そうだそうだと皆が叫ぶ。しかし、そうするしかない人殺しだって、もしかしたら、あるのではないか。その人になってみなければ明言出来ないことは、いくらでもあるのだ。倫理が裁けない事柄は、世の中に、沢山あるように思うのだが。

 ぼくは、ぼくなりの価値判断の基準を作って行かなくてはならない。その基準に、世間一般の定義を持ち込むようなちゃちなことを、ぼくは、決して、したくないのだから。ぼくは、自分の心にこう言う。すべてに、丸をつけよ。とりあえずは、そこから始めるのだ。そこからやがて生まれて行く沢山のばつを、ぼくは、ゆっくりと選び取って行くのだ。


「すべてに、◯をつけよ」は素晴らしい教え。
わたしたちはわたしたちの意識する、しないに関わらず、生まれた瞬間からいろんな価値観にさらされて生きている。

幼いころは母親、友人、教師たちから受ける影響は絶大だし、メディアからの影響も大きい。日々色んな価値観を受けるうちに、知らず知らずのうちに他者の価値観が自分の価値観だと思い込んでいることや、世間の価値観が正しいと何の疑いもなく思ってしまっていることは、実は少なくない。

30歳でフリーターはいけない、って誰が決めたんだろう。35歳で結婚できない女性はヤバいって、誰の価値観なんだろう。
 
言い出したらキリがないけれど、30歳でフリーターだろうが、35歳で結婚できなかろうが、まずはすべてに○をつけてみる。そこで自分の頭で考えてみる。「それって間違ったことか?」と自分に問いかけてみる。そうすると、世間一般で「ダメだよね」「恥ずかしいよね」とされていることって、ほとんどダメじゃないことがわかる。
 
すべてに○をつける。これができるようになれば、もっと生きやすくなるし、自由になれる。わたしは「いい歳してフリーター」が悪いことだとはちっとも思えないので、もうすぐそうなる予定。


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