結構今更だけど、山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』を読んだ。


わたしはおもしろい小説には2種類あると思っていて、ひとつは物語的におもしろくて、その世界に入り込んでしまうもの。個人的には半沢直樹シリーズの『オレたちバブル入行組』や、『清洲会議』、『ハリーポッター』などがそう。

もうひとつは自分の価値観や生き方に影響を与えるような本。『ぼくは勉強ができない』は、まさにわたしの価値観にガンガン影響を与えてくれる本だった。  



《あらすじ》
主人公の秀美は男子高校生。女の子にモテるけれど勉強はできない。父親はおらず、男遊びと消費癖が激しい母親と、散歩の途中に出会うおばあちゃんにしょっちゅう恋をして秀美に相談を持ちかける祖父と3人で暮らしている。

そのような環境で育てられたからか、秀美はいわゆる「普通の価値観」というものを持ち合わせていない。成熟した考えをもっていて、「自分は自分」と、周りに媚びることなく自由な思考を持ちながら生きている。

そんな秀美が家族、恋人、友人、教師との関係を通じて思うこと、感じることが、大きな気付きを与えてくれる。これは小説の形をした自己啓発書、いやむしろ哲学書だと思う。



「これヤバい!」と思う部分をまとめてみた。


幸福に育ってきた者は、何故、不幸を気取りたがるのだろうか。不幸と比較しなくては、自分の幸福が確認できないなんて、本当は、見る目がないんじゃないのか。 
母親がひとりで、親と子どもの面倒を見ているというだけで、ぼくは、不幸な人種として見詰められていたのだ。父親がいない子どもは不幸になるに決まっている、というのは、人々が何かを考える時の基盤のひとつにしかすぎない。そこに、丸印、ばつ印を付けるのは間違っていると、ぼくは思うのだ。父親がいないという事実に、白黒は付けられないし、そぐわない。何故なら、それは、ただの絶対でしかないからだ。
ぼくは、昨日のテレビ番組を思い出した。子どもを殺すなんて鬼だ、とある出演者は言った。でも、そう言い切れるのか。彼女は子どもを殺した。それは事実だ。けれど、その行為が鬼のようだ、というのは第三者が付けたばつ印の見解だ。もしかしたら、他人には計り知れない色々な要素が絡み合って、そのような結果になったのかもしれない。明らかになっているのは、子どもを殺したということだけで、そこに付随するあらゆるものは、何ひとつ明白ではないのだ。ぼくたちは、感想を述べることはできる。けれど、それ以外のことに関しては権利を持たないのだ。

人殺しはいけない。そうだそうだと皆が叫ぶ。しかし、そうするしかない人殺しだって、もしかしたら、あるのではないか。その人になってみなければ明言出来ないことは、いくらでもあるのだ。倫理が裁けない事柄は、世の中に、沢山あるように思うのだが。

 ぼくは、ぼくなりの価値判断の基準を作って行かなくてはならない。その基準に、世間一般の定義を持ち込むようなちゃちなことを、ぼくは、決して、したくないのだから。ぼくは、自分の心にこう言う。すべてに、丸をつけよ。とりあえずは、そこから始めるのだ。そこからやがて生まれて行く沢山のばつを、ぼくは、ゆっくりと選び取って行くのだ。


「すべてに、◯をつけよ」は素晴らしい教え。
わたしたちはわたしたちの意識する、しないに関わらず、生まれた瞬間からいろんな価値観にさらされて生きている。

幼いころは母親、友人、教師たちから受ける影響は絶大だし、メディアからの影響も大きい。日々色んな価値観を受けるうちに、知らず知らずのうちに他者の価値観が自分の価値観だと思い込んでいることや、世間の価値観が正しいと何の疑いもなく思ってしまっていることは、実は少なくない。

30歳でフリーターはいけない、って誰が決めたんだろう。35歳で結婚できない女性はヤバいって、誰の価値観なんだろう。
 
言い出したらキリがないけれど、30歳でフリーターだろうが、35歳で結婚できなかろうが、まずはすべてに○をつけてみる。そこで自分の頭で考えてみる。「それって間違ったことか?」と自分に問いかけてみる。そうすると、世間一般で「ダメだよね」「恥ずかしいよね」とされていることって、ほとんどダメじゃないことがわかる。
 
すべてに○をつける。これができるようになれば、もっと生きやすくなるし、自由になれる。わたしは「いい歳してフリーター」が悪いことだとはちっとも思えないので、もうすぐそうなる予定。