2012年9月16日、兄が傷害致死で殺された。享年31歳だった。

当時20歳と21歳の犯人の男ふたりは、今刑務所にいる。


あの出来事から今に至るまでのわたしの心境や、わたしたち家族に起こったことを書いていこうと思う。






2013/6


およそ10回にわたる裁判が始まった。



事件当日の様子が次々と明らかになった。犯人がその日にあった出来事語り、それを図で説明した。

事件の概要はこうだ。





事件現場は愛知県名古屋市港区の国道302号の路上。犯人たちは車5台、バイク4台ほどで仲間内のドリフトを見に工場地帯へ向かって走っていた。


犯人たちは片側一車線の道路を、時速30kmで何台も連なって走っていた。運の悪いことに、兄はその集団の後ろについた。さらに運の悪いことに、兄はそういったとき、大人しく後ろを走り続けるようなタマではなかった。


反対車線へ出て猛スピードで集団を追い抜いた兄の行動に、バイクで先頭を走っていた犯人の大谷が怒りを感じてすぐさま抜き返した。そしてものすごく速度を落とすか止まるかして、兄の車が大谷の運転するバイクに追突した。


この追突で大谷が怪我をすることはなかった。だが激昂した大谷が兄の運転する車に近寄り、兄も車を止めて外へ出た。大谷は兄の胸ぐらをつかみ、兄は大谷の肩を掴んだ。兄の身長は、大谷よりも15センチほど高い。

「テメェなにやってんだ」という大谷の言葉に兄も応戦し、ふたりは額を突き合わせてにらみあった。


そこで大谷が、兄が飲酒していることに気づいた。「お前酒飲んでるんだろう。警察に通報するぞ」と言われ、兄はなにも言えなくなってしまった。無抵抗になった兄を、大谷は胸ぐらをつかんで体を運転席側のドア付近に叩きつけたり、平手で何度か殴った。それでも兄は無抵抗だった。兄の体は、頭は、大谷に揺さぶられてぐらぐら揺れた。



少し遅れて、集団の後方をバイクで走っていた安田がやってきた。改造したバイクのマフラー部分が走行中に落ち、取りに戻っていたために集団から少し遅れをとっていた。

安田は仲間から、大谷のバイクに兄の車が追突したと聞くやいなや、マフラーを持ったまま兄と大谷の元へ駆けつけ、兄の太ももとお尻のさかいめあたりをマフラーで殴った。わたしの予想では、大きな痛みを伴うものではなかったと思う。お尻の辺りのやわらかい部分に当たっているし、この打撃で兄は倒れることはなかった。マフラーを捨てた安田は、兄の顔面を拳で2、3発殴った。





一方的に殴打を受けた兄が、車へ戻ろうと歩きかけた瞬間、ぐらっと体制を崩し地面に突っ伏した。受身も取らずに後頭部を地面に強打し、ゴンっとかゴリっとかいうにぶい音がした。犯人と数人の仲間たちの証言では、殴打後兄は数歩歩いたとされているが、仲間の中には安田の拳によって転倒して頭を打ったと証言する者もいた。真実はわからないが、後の医師の証言によって前者が正しいと裁判では判断された。

胸ぐらをつかまれて激しく体を揺さぶられたことによって頭がぐらぐらと前後に揺れたり、殴られたことによって頭が左右に揺れたりなどの「頭が激しくゆさぶられること」によって脳の血管が切れたことが兄を死に至らしめた決定的な要因となったことが証明されたからだ。





安田の打撃により頭を打って死ぬことと、大谷と安田の行為によって脳みその血管が切れて死ぬこと。どちらも彼らが兄を死なせたことに変わりはない。だけどわたしは後者でよかったという安心感のようなものを感じた。犯人たちの行為以外にもなにか別の要因があってほしいという思いがあったからかもしれない。

本当は血管はもろくなっていて死期は近かった。そこにたまたま殴打が重なり、死に至った。犯人たちの行為だけで兄が死んだのではない。犯人たちが兄の人生をうばったのではない。兄は死にゆく運命だったのだ。

わたしはそう思いたかった。そう思うことで絶望の中に少しだけ空間のようなものができる。絶望で満たされた心の中にできたわずかな空間では、息をすることができる。苦しくなったら、そこに頭を突っ込めばいい。息が整ったら、また絶望の中に身を投じればい。そんな空間だ。


その空間のおかげで、わたしは過酷な裁判を乗り越えることができた。




続く。