2012年9月16日、兄が傷害致死で殺された。享年31歳だった。

当時20歳と21歳の犯人の男ふたりは、今刑務所にいる。


あの出来事から今に至るまでのわたしの心境や、わたしたち家族に起こったことを書いていこうと思う。






2013/7



確か7回目か8回目かの裁判だったと思う。兄の息子、わたしの甥にあたる蓮が裁判を傍聴しに来た。その日の裁判では、検察にお願いされて蓮が書いた亡き父に宛てた手紙が読まれる予定だったからだ。

 

蓮が呼ばれたのは裁判員へのアピールのためだ。息子から父への手紙が読み上げられるなか、傍聴席の遺族の関係者席に前回まではいなかった子どもが座っていたら、被害者の息子だと思うだろう。裁判官と違い、裁判員は一般人だ。いくら公平な判断を求められていても、父を失った幼い息子の姿を見れば、犯人の罪を重く考えるかもしれない。

裁判員の同情を誘うために、来たくもない裁判に来なければならない蓮の気持ちは、大人たちにとってはどうでもいいことなのだ。

 

 

蓮の手紙を読み上げる検察官はの声ははきはきと、よく通る声だった。だからだろうか、全く心を動かされなかった。蓮が書いた文章のはずなのだけど、知らない人が書いたように感じた。

 

蓮は、法廷に入ってからずっと、ここにはいたくないという感じでもじもじしていた。自分の書いた手紙が読み上げられているときは、その居心地の悪さから、隣にいるわたしにここから出たいと訴えた。わたしは蓮の手を引いて外へ出た。

 

一体蓮は、犯人を前にしてどう思っているのだろう?表情からは読み取れなかった。

 



 

蓮は、父を亡くしたにもかかわらず泣き言ひとつ言わない。兄が死ぬ前と死んだ後で、一切様子が変わらない。もちろん悲しいという想いはあると思うけれど、決して表に出さない。

 

裁判の前だったか後だったか忘れてしまったが、蓮が家に遊びに来たときに2人で散歩をしていると、「ママに彼氏ができたらいいな」と言い出した。わたしはとても驚いた。いいの?と聞くと、「うん、だってママひとりで大変そうだから」という。

父を失った息子が、そんな風に思えるものなのだろうか?自分の寂しさよりも、母の大変さを心配している。10歳のその小さな身体から溢れ出す優しさと勇敢さを感じた。高木家で最も偉大なのは蓮かもしれないと思った。

 

困難は、それを受け入れるだけの器を持った人にしか降りかからない、という言葉を聞いたことがある。もしもそれが本当だとしたら、確実に蓮は父を失うことを、そしてそれが第三者の手によって失われるということを、受け入れられる器を持っているということだ。

もしかしたら蓮は、父を失うべくして失ったのかもしれない。

 

そう思うと、すべてのことに意味があるのだと思う。蓮にとって父を失うということは、彼の人生で大きな意味を持つことなのだ。それがどんな意味なのかは、蓮が見出していく。

 

 

人生におけるありとあらゆる困難、苦痛、悲しい出来事は、すべて起こるべくして起こっている。そこにどんな意味を見出すのかは自分次第だ。わたしたちは起こる出来事によって決定づけられるのではなく、起こる出来事にどんな意味づけをするかで決定づけていくのだと思う。

 

兄の死は、わたしに何を教えようとしてくれているのか。兄の死を、どう意味づけるか。それはわたしの選択次第だ。




続く。