2012年9月16日、兄が傷害致死で殺された。享年31歳だった。


当時20歳と21歳の犯人の男ふたりは、今刑務所にいる。



あの出来事から今に至るまでのわたしの心境や、わたしたち家族に起こったことを書いていこうと思う。






2012/9




兄は会社員だった。

同時に不動産オーナーでもあった。家族に借金をして、8年ほど前に実家の近くにマンションを建てた。名古屋市内にもマンションの一室所有し、家賃収入を得ていた。土日は知り合いから水道工事の仕事を紹介してもらい働いていた。

会社の給料で家族4人が十分に食べていけるのに、なぜそれ以上に働くのか。なぜ借金をしてまでマンションを建てるのか。それは将来のためだった。兄は将来働かずに生きていくためにお金を貯めていた。不動産を持ち、働かなくても収入が入る状態になるための準備をしていた。


けれどある日突然死んでしまった。


将来のために今頑張るという兄の考え方は、間違っているとは思わない。だけどそれは、この先何十年も生きることができるなら、の話だ。兄が80歳まで生きたとしたら、兄の努力には意味があったと思う。きっと普通の人よりも早く会社を辞め、不労所得生活を楽しめたと思う。自由を謳歌できたと思う。だけどその未来が来る前に死んでしまった。


将来のために、頑張る。将来のために、準備する。将来のために、勉強する。将来のために、稼ぐ。将来のために、保険をかける。

本当にそれでいいのだろうか。将来は、本当に来るのだろうか。

多くの人は、将来のために今を生きることになんの疑問も持たない。わたしも今まではそうだった。将来のために勉強し、将来のために働き、将来のために選択し、行動していた。けれど兄が死んで、将来のために生きるのは虚しいと思った。

そもそも、将来とは一体いつのことを言うのだろう。学生のころは、就職してからのことを考え、就職してからは、10年後、20年後のことを考え、その次は老後のことを考える。死ぬ日まで「将来」から逃れられない。残された家族のことを考えたら、もしかしたら死ぬ瞬間さえも逃れられないかもしれない。

わたしたちはいったいいつになったら「将来」を考えることをやめて、今を生きることができるのだろう。どれだけ準備をしたら、どれだけお金を貯めたら安心できるんだろう。来るかどうかもわからない将来のために、なぜ今必死になっているんだろう。

兄は「今を生きる」とはどういうことかを教えてくれた気がする。わたしは将来がどうなるかわからないこそ、準備のための人生にはしたくないと思う。頑張るのなら、将来のためではなく、今を楽しむために頑張りたい。大変なことは、起こってから考えればいい。

人生に、準備も下積みも必要ない。




続く。