竹富島から戻り、石垣島のゲストハウスに泊まったときのこと。

わたしと同じように沖縄を一人で旅している同世代の女の子に出会った。彼女はまさに今から竹富島へ行くらしく、「どうだった?」と聞かれた。

わたしは竹富島でいろんな感情を感じていたので、「どうだった?」と聞かれてもなんと答えたら良いかわからなかった。一言ではとても伝えられない。竹富島は素敵な島だと思うけれど、刺激を求めるわたしには物足りない。けれど「どうだった?」と聞かれたら、「よかったよ」と答えるしかできない。わたしには合わなかったというだけで、いい島であることに変わりはないのだから。






最近よく思うことは、SNS(特にFacebook)では人の表面だけの、しかもコマ切れの日常しか知り得ないのだということ。以前、月に1度ほどのペースで活動をFBにアップしていたら、久しぶりに会った友人から、「充実してるね〜」「いろいろ動いているよね!」と言われたことがあって驚いた。動いているどころかむしろぐだぐだした日々を過ごしていたのに、数回の投稿を見ただけで、友人はわたしの人生が充実していると思ったのだ。

華やかな写真をアップしたり、楽しそうな様子の投稿を見て、「楽しそうでいいな」「充実していてうらやましい」と思う前に少し考えてみる。その投稿は、その人の人生のコマ切れの一部分でしかないことを。どんなに楽しそうな写真がアップされていても、その人が最高に人生を楽しんでいるのかといったらそうでもなかったりする。実際にわたしも、石垣島での楽しげな写真をアップしてみたけれど、石垣島にいる間ずっと楽しかったかと言われたらそうではない。実は泣きたい気分だったことなんて、誰も知らない。

人がどう感じているかなんてその人にしかわからない。だからFBの楽しげな投稿を見て、自分と比べて落ち込む必要なんてこれっぽっちもない。わたしの個人的な意見だけど、SNSで私生活を披露しない人の方が、日常のちいさな幸せを感じながら、楽しい日々を送っているように思う。



余談だけど、わたしは普段テレビをほとんど観ない。その大きな理由は「いいところしか映さない」からだ。編集され、つくられた作品からはリアルを感じることができない。ニュースもそうだ。いろいろな事情で、真実が、もしくはそのほんの一部しか伝えられていないことがほとんど。だからわたしは世界に出たいと思った。自分の目で見て、自分が感じたことを自分の真実にしたい。






竹富島の宿に、宿泊客がメッセージを書き込めるノートがあった。そこには「楽しかった、ありがとう」「竹富島大好きです」などのメッセージに混じって、リアルな書き込みがあって読み込んでしまった。
 

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人生の大きな決断を前にして答えを出せないでいる人の心の葛藤。

今までの人生を振り返り、悔いはない!と言い切るすがすがしさ。

10年前に大病を患い、制限された生活を送ってきた「辛さ」を吐き出し、もっと周りに頼ろうという決意。

そういったリアルな想いが綴られていて、とても心があたたかくなった。みんなそれぞれ葛藤していて、不安を抱えてそれでも前を向いて、ときには前を向けなくて、無限の闇の中にいるような気になって、死にたくなったり人を信じられなくなったり、だけどやっぱり信じたくなったり、、



わたしは、人を勇気づけるのは人の弱さだと思う。人の弱さに、自分の弱さとの共通点を見出して安心したり、同じ弱さを抱えながらも前を向こうとしている姿に勇気づけられる。迷い、悩んで、葛藤して、自分の答えを見つける。その過程そのものがその人の魅力。

以前出会った「素晴らしいアーティストは、自分をさらけ出すことをためらわない」という文章が頭の中に繰り返し響いている。自分の中にある、ありとあらゆるものを、正直にためらわず表現できる人間でありたい。