今年の夏に旅を終えて実家に戻った。旅の疲れもあり、次にしたいことも思い浮かばず、2〜3ヶ月ほどぐだぐだと過ごしていた。その間仕事をしていなかったので、自分の部屋にいることが多くなった。


どうせ多くの時間を過ごすのなら素敵な空間で過ごしたいと思い、部屋を改装しようと思った。しかし働いていないのでお金がない。ならば必要なものは買うのではなく、つくるしかない。自他共に認める不器用なわたしが「ものづくり」をする日がやってくるとは夢にも思わなかったけれど、お金がない代わりに時間なら持て余すほどあるので、暇つぶしと思ってやってみることにした。




まず初めにカーテン専門店へ行き、「カーテンの端切れ詰め放題100円」で端切れをいくつか仕入れた。端切れといっても幅1メートル、長さ2メートルはあるのでアイデア次第で用途はたくさんある。わたしと対象的で器な父親に習いながら、クッションカバーと枕カバーをつくってみた。それが始まりだった。


  • ものをつくるよろこび

完成したものは低クオリティだったけれど、「何かをつくるのって楽しい!」という感覚を久しぶりに味わうことができた。


最後に裁縫で何かをつくったのは、中学の授業でだったと思う。決められたものを半ば強制的につくらされる家庭科の授業はまったく楽しいと思えなかったけれど、自分の意思で始めるものづくりは思いのほか楽しい。「やらされる」のと「やろうと思ってやる」には、天と地ほどの差がある。「やらされる」からは何の創造性も生まれず、何のよろこびもない。けれど「やろうと思ってやる」は、人間に想像を超えた幸福感をもたらす。わたしはものづくりの楽しさを初めて味わった。


  • 必要なものはすべて揃っている

それからというもの、捨てようと思っていたデニムを切り取ってグラスを置くコースターをつくったり、物置にしまっていた家具にペンキを塗って自分好みにして使い出したりした。


この辺りから、いらないと思っていたものも、見た目や用途を変えることでなにかしら利用できると気づき始めた。気づいてしまってからは加速した。物置に置きっぱなしになっていたガラクタたちが、とても素晴らしいインテリアになった。



必要なものはすべて揃っていた。今まではないから買わなきゃと外に求めていたものが、すべて自分の家にあった。ただ見ていないだけで、自分が勝手にないと思っていただけだった。


ほしいと思っていたガラスの瓶も、物置のガラクタの山からたくさん見つけたし、ベランダに放置されていた椅子はよく見たらとっても素敵だったので、綺麗に拭いて部屋に持ってきた。使わなくなった家具は色を塗り替えると輝きを取り戻した。


ドライフラワーを飾りたいなあと思った時も、普段まったく足を踏み入れない裏庭にいってみたら、紫陽花が勝手に枯れて自然にドライフラワーになっていた。

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(右が買ってきたドライフラワー。左が家で自然にできていたドライフラワー)


小物入れはリビングにごろごろあふれていたし、間接照明はボロボロになってはいたけれど、物置に転がっていて、リメイクしたら十分使えた。壁を飾るアートや写真が欲しいと思っていたら、iPhotoの中に旅で撮った写真がたっぷりあった。無料アプリでそれらを加工して印刷して部屋に飾ったら、立派なアートになった。 

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きっと今のわたしたちに足りないものなんてなにもなくて、必要なものはすべて用意されている。それに気づくか気づかないかだけなんだと思う。


  • たどり着いたときではなく、向かって歩いているときが幸せ

ものづくりにとどまらず、本格的な部屋改造が始まった。ペンキ塗りの楽しさを知った私は、部屋の壁も塗り替えてしまおうと思った。さっそくペンキを買い、父に手伝ってもらって、何日間かに分けて部屋の壁一面一面を塗り替えていった。


わたしの頭は部屋の改装のことでいっぱいだった。時間があればどんな部屋にしようかとネットで検索し、本屋で雑誌を立ち読みし、ずっと妄想に耽っていた。それを考えるのは本当に楽しくて仕方なかった。


わたしはなんて幸せなんだろうと思った。少しずつ理想の部屋に近づいているよろこび。なにかをつくるよろこび、父と一緒にものづくりができるよろこび。どんな部屋にしようかとわくわくできるよろこび。部屋を改装を通じて、いくつものよろこびがあり、そられに囲まれているわたしは間違いなく幸せだった。



わたしは部屋が自分好みになったらいいと思っていて、自分好みになったら満足感や幸福感を味わえると思ったのだけど、それは違った。自分の目指すところに向かって何かをしている最中が幸せであふれていた。つまりゴールにたどり着いた瞬間が幸せなのではなくて、ゴールに向かって歩いているときが幸せなのだ



今でも暇をみつけては部屋の改装を続けていて、少しずつ理想の部屋に近づいていく幸せを感じながら過ごしている。

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好きなことをしだすと自分も周りも幸せになる


部屋の改装という「やりたいこと」を、やりたりたいままにやりだしてからというもの、「もっとこれもやってみたい」「こんなことをしてみたい」というわくわくする欲求が次から次へと出てきた。それは世間の価値観や常識や見栄とはまったく別の、心からの欲求だった。


そしてそのために働こう、働きたいという前向きな気持ちになった。


生きていくための労働ではなく、好きなことをするための前向きな行動は、人生を明るくする。




そしてこれにはわたしもびっくりしたのだけど、わたしが部屋の改装を始めてから家族が仲良くなった。改装を通じて父と作業をする時間ができ、コミュニケーションが増したという物理的な要因もあるけれど、なぜか知らないけれど父と母も仲良くなったのだ。


わたしは両親と3人で暮らしているのだけど、今までバラバラに取っていた家での食事を、一緒にするようになった。買い物に一緒に行くようになった。同じ家にいながら3人それぞれが自分の部屋を持ち、バラバラに過ごしていたのが、なぜかわたしが好きなことをやりだした途端、家族がつながりはじめた。


わたしたちは仲が悪いわけではないのだけど、かなり冷めた家族だったと思う。それが今では毎週日曜には庭のテラスでバーベキューをするまでになった。


自分が好きなことをすれば、自分が幸せなのはもちろん、周りも勝手に幸せになるのだと思う。根拠はないのだけど、そう確信している。


  • お金がなくなって気づいたこと

これらの幸せを感じることができたのは、お金がなかったからだ。お金があったら、わたしはものづくりをすることはなかっただろうし、そもそも部屋を自分好みに作り変えようという意識にもならなかったと思う。


わたしは両親も健在で幼い頃から祖父母と同居しており、高校1年からバイトもしていたので、お金に不自由をしたことがなかった。必要なものや欲しいものは、贅沢をしなければ大抵お金で買えた。お金があるのは幸せなことではあるけれど、つくらなくても買える状況が、ものづくりの楽しさを味わう機会を損ねさせていたのだとしたら、それはある意味不幸ことかもしれない。



お金がないという、幸せとはかけ離れた(と思っていた)ところからスタートしたのに、今まで味わったことのないタイプの、内側からくるじんわりとくるあたたかい幸福感はなんだろう。





わたしは決してお金がないことがいいことだと言いたいのではない。お金は欲しいし、ないよりあったほうがいいと思うけれど、幸せとお金は必ずしもつながらない。同時に、お金がない=不幸でもまったくないということ。


お金でできることもたくさんあるけれど、お金がなくてできることも同じくらいたくさんある。このことを覚えていれば、お金に振り回されずに生きていける。