2015年04月

ここ数ヶ月間、「世界一周へ行く」と発信しているのだけど、「危ないんじゃない?」「気をつけて」という言葉を頻繁にかけられる。心配して言ってくれているのはありがたいのだけど、言われるたびに疑問を感じる。

そう言う人のほぼ100%が、世界で危険な目に合ったことがない。世界には195カ国、72億人がいて、1日は24時間、1年は365日あって、その中で起きているほんのわずかな悪いニュースを見ただけで、メディアを鵜呑みにして、世界は危険が溢れていると信じ込んでいる。

前の職場の同僚に世界一周のことを伝えると、「危険じゃないですか」「僕に娘がいたら絶対行かせません」と言うので「危険な目にあったことがあるんですか?」と聞くと、海外に行ったことすらない言われて、驚きを通り越してあきれたことがある。

アジアを3ヶ月放浪した、手ぶらでオーストラリアを横断した、30カ国以上旅している……などの経験がある人は、世界一周のことを話すと「最高だね!」「いいね!行け行け!」「一生の思い出になるよ」「楽しんできてね」と、肯定的なことしか言わない。海外でスリにあって全財産を失くしたり、銃を突きつけられた経験がある人ですら、「気をつけて」とは言わない。

否定的な意見を口にするのは、いつだって経験したことのない人たちだ。



「女の子だから気をつけて」と言われるのも正直何と答えていいかわからない。確かに男性より犯罪に巻き込まれる確率が少しは高まるのだろうけど、「女の子」というのが旅においてどれだけプラスに働くかについて彼らは考えもしない。女の子だから親切にしてもらえたり、相手に警戒心を抱かず接してもらえる。



「世界一周」と聞けば「危険だ」と連想するのは、「挑戦」と聞けば「失敗」を思い浮かべ、「やりたいこと」には「できない言い訳」を並べるのと一緒。否定的な発言をする前に少し考えてみてほしい。本当に世界には危険ばかりなのか?その目で見て出した答えなのか?






人はだれもが自分の哲学を信じて生きているのだけど、それを「人類普遍の法則」とでもいうように自慢げに話してくる人がいる。そういう人たちは、語れる相手(自分より目下の人間か、自分が提供しているものによって恩恵を受けている者)を常に探している。

目上の人からの忠告を聞くときは注意が必要だ。彼らは聞いてもいないのに、「こうしたほうがいい」「ああしたほうがいい」と得意げに語ってくる。それだけならまだいい。「なぜそんな決断をするのか?こうするべきだ!」とこちらの決断に文句を言ってくる人さえいる。聞かれてもいないのにベラベラと「人生とは」「結婚とは」「生きるとは」と物知り顔で語ってくる人は、格好つけたいか、周りに自分の意見を聞いてくれる人がいないか、自分の人生に強気強いコンプレックスを持っているかのいずれかだ。

そんな人の言うことは気にしなくていい。もし、相手の言っていることが誰しも当てはまる法則なのか、それとも聞き流せばいいだけのつまらない人生論なのか、どちらだろうと迷った時、「その人のように自分はなりたいと思うか?」で判断したらいい。その人が幸せそうで、今を楽しんでいて、「いいなあ、こんなふうになりたいなあ」と思えたら、その人の言うことは信じていい。

けれどその人が幸せそうじゃなかったり、その人みたいな人生はごめんだと思うなら、その人の口から発する言葉は1ミリたりとも参考にしなくていい。
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竹富島から戻り、石垣島のゲストハウスに泊まったときのこと。

わたしと同じように沖縄を一人で旅している同世代の女の子に出会った。彼女はまさに今から竹富島へ行くらしく、「どうだった?」と聞かれた。

わたしは竹富島でいろんな感情を感じていたので、「どうだった?」と聞かれてもなんと答えたら良いかわからなかった。一言ではとても伝えられない。竹富島は素敵な島だと思うけれど、刺激を求めるわたしには物足りない。けれど「どうだった?」と聞かれたら、「よかったよ」と答えるしかできない。わたしには合わなかったというだけで、いい島であることに変わりはないのだから。






最近よく思うことは、SNS(特にFacebook)では人の表面だけの、しかもコマ切れの日常しか知り得ないのだということ。以前、月に1度ほどのペースで活動をFBにアップしていたら、久しぶりに会った友人から、「充実してるね〜」「いろいろ動いているよね!」と言われたことがあって驚いた。動いているどころかむしろぐだぐだした日々を過ごしていたのに、数回の投稿を見ただけで、友人はわたしの人生が充実していると思ったのだ。

華やかな写真をアップしたり、楽しそうな様子の投稿を見て、「楽しそうでいいな」「充実していてうらやましい」と思う前に少し考えてみる。その投稿は、その人の人生のコマ切れの一部分でしかないことを。どんなに楽しそうな写真がアップされていても、その人が最高に人生を楽しんでいるのかといったらそうでもなかったりする。実際にわたしも、石垣島での楽しげな写真をアップしてみたけれど、石垣島にいる間ずっと楽しかったかと言われたらそうではない。実は泣きたい気分だったことなんて、誰も知らない。

人がどう感じているかなんてその人にしかわからない。だからFBの楽しげな投稿を見て、自分と比べて落ち込む必要なんてこれっぽっちもない。わたしの個人的な意見だけど、SNSで私生活を披露しない人の方が、日常のちいさな幸せを感じながら、楽しい日々を送っているように思う。



余談だけど、わたしは普段テレビをほとんど観ない。その大きな理由は「いいところしか映さない」からだ。編集され、つくられた作品からはリアルを感じることができない。ニュースもそうだ。いろいろな事情で、真実が、もしくはそのほんの一部しか伝えられていないことがほとんど。だからわたしは世界に出たいと思った。自分の目で見て、自分が感じたことを自分の真実にしたい。






竹富島の宿に、宿泊客がメッセージを書き込めるノートがあった。そこには「楽しかった、ありがとう」「竹富島大好きです」などのメッセージに混じって、リアルな書き込みがあって読み込んでしまった。
 

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人生の大きな決断を前にして答えを出せないでいる人の心の葛藤。

今までの人生を振り返り、悔いはない!と言い切るすがすがしさ。

10年前に大病を患い、制限された生活を送ってきた「辛さ」を吐き出し、もっと周りに頼ろうという決意。

そういったリアルな想いが綴られていて、とても心があたたかくなった。みんなそれぞれ葛藤していて、不安を抱えてそれでも前を向いて、ときには前を向けなくて、無限の闇の中にいるような気になって、死にたくなったり人を信じられなくなったり、だけどやっぱり信じたくなったり、、



わたしは、人を勇気づけるのは人の弱さだと思う。人の弱さに、自分の弱さとの共通点を見出して安心したり、同じ弱さを抱えながらも前を向こうとしている姿に勇気づけられる。迷い、悩んで、葛藤して、自分の答えを見つける。その過程そのものがその人の魅力。

以前出会った「素晴らしいアーティストは、自分をさらけ出すことをためらわない」という文章が頭の中に繰り返し響いている。自分の中にある、ありとあらゆるものを、正直にためらわず表現できる人間でありたい。
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沖縄に1週間滞在する予定だったけれど、耐えられなくなって5日目に帰ってきた。何が耐えられなくなったかというと、帰る日が決められているということだ。島なので先に進むこともできない。直感が「もうここは十分」と言っているのに、飛行機のチケットが2日も先だということに耐えられなくなった。

わたしは帰りたい時に帰りたいし、進みたいペースで進みたい。自分のタイミングで行動できないのはストレスでしかなく、居たくない場所にいるのは苦痛でしかない。

 



 

一人で旅をしていると、当然だけど楽しいことばかりじゃない。負の感情で心がいっぱいになるときもある。その土地に慣れたときにそうなりやすい。

負の感情は悪者扱いされがちだけど、わたしは悪いものじゃないと思う。ついつい排除したくなるけれど、負の感情のおかげで気づけることもあるし、何かしらの行動を起こすきっかけになったりもする。いつも心穏やかに健やかにいる必要なんてない。人間だもの。浮き沈みがあるのもおもしろくてわたしは好きだ。

旅先で寂しさやつまらなさやを覚えたり、退屈を感じるのだって、決して悪いことじゃない。

期間が決められているから、「充実したものでなければいけない」と焦る。そういった焦りが余計なイライラを生むし、余裕がなくなる。「旅なんて別にいつでも来れるんだから」とドンと構えて、つまらなくてもいいと思ってしまう。楽しくなければいけないという思い込みを捨てて、もし楽しくなければ「ああここは、自分には合っていなかったんだな」と気づけただけでもよしとする。あれもこれも、とガイドブック片手に血眼になる必要はない。行きたいところがなければ帰ってもいい。自由に過ごしていい。

わたしは負の感情に蓋をしない。外へやらない。嫌がらない。否定しない。そう思えるようになってからは、逆に心穏やかに過ごせているような気がする。負の感情は味わいつくせば消えて無くなる。

 

来月から世界を旅すると言うと「いいなー」「楽しそう!」と言われるのだけど、楽しさはきっと3割くらいだと思っている。あとの7割は、驚き、寂しさ、やふがいなさ、苦痛、感謝、悲しさ、幸福感、絶望感などが入り混じった複雑なものになるだろう。楽しさばかりを求めて行くわけじゃない。ひとつだけ確実なのは、「行ってよかった」と思うということ。過酷な旅だったとしても。
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来月から世界を旅する予定なのだけど、わたしが目指しているのは「現地の人たちの生活を体験する旅」。世界の人々の生活や価値観を知り、発信したい。そのために現地の人の家に泊まって、一緒に時間を過ごしたい

十分な資金がないので、「体験」と「食事と泊まる場所」をトレードしながら旅をしたいと考えている。

詳しくはこちら:資金を貯めずに自分の体験をシェアしながら世界中を旅するのは可能?

「体験」とは、兄の事件のことだ。兄は2012年の9月に傷害致死で亡くなっている。犯人は2人いて、彼らは今刑務所にいる。事件から2年半、いろんなことがあったけれど、今は犯人のことを恨んでいない。彼らが出所して、幸せになることを願っている。

詳しくはこちら:誰かを恨んで不幸になるのは自分だ。許せない相手を許せたとき、人は幸せを感じることができる。

わたしが犯人の幸せを願えるようになるまでの体験を、同じような思いをしている人に届けてみてはどうかと友人にアドバイスをもらった。プロモーションビデオを作成して世界中に発信し、「話を聞かせてほしい!」というオファーを募る。できあがったビデオはこちら。

https://youtu.be/1nmFfIOVk4A

昨日Facebookにアップすると、シェアしてくれる人、励ましの言葉をくれる人、団体を紹介してくれる人……たくさんの人が協力、応援してくれた。本当にうれしかった。

こんな素敵な言葉をくれる人もいて、感動して泣きそうになった。
Being authentic to yourself and the world - I think there's a real strength and beauty lies within.



 

先日ヒッチハイクをして気がついたのだけど、ヒッチハイカーに声をかけられた人が取る反応は大きくわけて2つある。ひとつは警戒や不信感をあらわにする人、もうひとつは好意的な反応を示す人だ。圧倒的に前者の方が多い。

何がこの2つの違いをもたらすのだろうと考えてみると、「冒険した経験の有無」なんじゃないかと思った。なぜかというと、見ず知らずのわたしを東京から名古屋まで連れて行ってくれた2人の方は、1人は「若い頃バイクで日本一周」もう1人は「20年勤めた会社を辞めて、北海道をバイクで一周」という経験を持っていたからだ。

彼らは、ヒッチハイカーのわたしに何かしらのシンパシーを感じて、受け入れてくれたのだと思う。冒険を経験した人間は、冒険をしようとしている人間を応援したくなるのだ。

 

これは単に「似たような経験をした」ということだけではなく、生き方に通じるものだと思う。異質な人間を目の前にして、露骨に引いた顔をする人、拒否反応を示す人は、冒険をしたことのない、つまり自分の意見よりも常識や周りの目など「他人軸」で生きてきた人なのではないかと思う。

周りの意見や常識にとらわれず、自分のしたいことをしてきた人は、異質な人間に寛容だ。なぜなら「人の目を気にせず自分のやりたいことをやる」ことに「マル」をつけているからだ。きっと、今回のわたしの「体験をシェアしながら世界一周」という冒険を応援してくれる人は、自分も日々何かに挑戦していたり、冒険した経験がある人なのだと思う。

冒険を避けて生きていると、人の冒険を蔑む人間になってしまう。他人の目や常識に縛られていると、非常識な人間を排除しようとする人間になってしまう。心から人を応援できる人は、自分軸で生きている人。わたしは冒険する人を応援できる人間になるためにも、自分も冒険し続けたいと思う。ヒッチハイクをしている若者を、瞬時に乗せてあげられるような人間になりたい。誰かの馬鹿げた挑戦を思いっきり応援できる、わたしの周りにいるような素晴らしい人間になりたい。

 
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沖縄本島のゲストハウスに泊まったときのこと。

そのゲストハウスは様々なタイプの部屋があり、わたしが泊まったのは2段ベッドが2つある部屋で料金は1500円と激安だった。その宿の隣には、宿泊客が集まって毎晩宴会が開かれる小屋があり、わたしも参加してみることにした。

そこには40人ほどの男女が集まり、ほとんどが20〜30代だった。人との出会いを求めて安宿に泊まる、旅好きな人たちばかり。総じてノリが若い。その日はオヤジたちと飲んだ後だったこともあり、そのギャップにとまどってしまった。

わたしはすぐにその場を立ち去り、自分のベッドへ向かった。自分に合わない空間に1秒でも長く身を置きたくなかったからだ。以前のわたしなら、ノリについていけないことに落ち込んでいたと思う。けれど今は、「合わないのだからしょうがない」と割り切ることができるようになった。

 

大勢が楽しんでいるのに自分だけが楽しめないとき、ノリについていけない自分が悪いような気がしてしまうけれど、絶対にそんなことはない。誰にだって合わない空気はある。必要なのは、無理してノリに合わせようとする努力ではなく、一刻も早くその場を立ち去る勇気だ。

「自分に合うものだけを選択しよう」と決めてからは、生きることがとても楽になった。自分に合わなさそうな場に行くこともほとんどなくなり、大切な人と過ごしたり、自分の好きなことをする時間が増えた。

合わないものは合わないと割り切る勇気を持つ。一人になる勇気も。自分に合わないものからは遠ざかり、自分が心地いいと思える環境だけを選んでいく。そうすればストレスを感じる機会も減るし、自己嫌悪に陥ることも少なくなる。そうやって取捨選択していくことが、幸せに生きる方法のひとつだと思う。
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