2015年09月



今日、ちょっとショックなことがあった。


わたしは旅の記録をブログに書いているのだけど、旅で出会った人とどんな会話をしたのか、どんなことがあったのか、めちゃくちゃリアルに書いていて、何にも考えずに、 実名とか、会社名とか出しちゃってて。


会社名が出ていることや、個人が特定できるということ、内容がちょっとキワドくて、その人のイメージ、ひいては会社のイメージを損なうということで…会社側が、記事の削除を求めてきた。詳しくは書けないけれど、わたしのブログのせいで、会社の企画がおじゃんになっちゃうかもしれないから、って。


そんなにPV数があるわけじゃないし、大した問題にならないだろうって、タカをくくってた部分もあって。だけど結果的に、わたしが書いた記事のせいで、誰かが被害を被るかもしれない事態になってしまった。


ちょっと考えれば、自分のことを実名で出されて、ネタにされたらどう思う?それによって、誰かが迷惑するかも?ってこと、わかるはずなのに。その辺の意識が抜けてたなあって、反省。なんでそんなことにも気づかないわけ?って、ちょっと自己嫌悪に陥ったけど、


 でもでもでも!ピンチはチャンスだから!


学べたからよかったじゃん!これからは、ちゃんと相手のプライバシーを考えて、仮名で書いたり、どこの誰だか特定できるような書き方を避けるような書き方をする。それが、相手もわたしも、誰も嫌な思いをせずに済む方法なんだって学べた。




だけど!こんなときでも自分を責めまくったりはしない(ちょっと自己嫌悪モード入ったけど)。そのときの自分(問題になったブログを書いたとき)は、確かに自分がしたことがどういう結果を招くか想像できない未熟者だったけれど、だけど、悪意があって書いたわけではないし、そのときの自分は、精一杯ブログを書いていたんだから。今回のことで、たくさん学べてよかった。後悔はしない。






わたしはいつも、嫌なことがあったり、問題が発生したり、自己嫌悪で落ち込んだとき、必ず、「この出来事があってよかったと思える日が必ず来る。だから、絶対大丈夫」って思うようにしている。そして、さっきも書いたけど、必要以上に自分を責めない。過去の未熟な自分を責めない。


だけど責めちゃうときもある。どうしようもなく自分を責めちゃうときもある。自己嫌悪でどうしようもなく落ち込んじゃうときもある。そんなときは、じっとしていたらどんどん落ちてゆく。だから、頭ではなく、体を使って、例えばわたしの場合はとにかく走る。それだけで少し気分が晴れる。




ピンチはチャンス。この出来事があってよかったと思える日が必ず来る。この出来事のおかげで、今のハッピーな自分があると思える日が必ず来る。だから何があっても、絶対大丈夫なんだ。
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わたしたちは極論、誰とも会わず、誰かと一緒にいることなく、ひとりで生きていける。


出社したり、誰かと顔を合わせることなく、ネット上だけで完結させられる仕事はたくさんある。買い物だって、なんでもネットで注文できる。外でひとりでご飯を食べることは当たり前のことになっているし、 ひとり旅を楽しんでいる人もたくさんいる。結婚せず、生涯未婚の人も増えている。 


ネットもなんにもなかった時代だったら、「生きていくために」近所の人たちと関わって、情報交換をしたり、コミュニティを築くことが必要だったと思う。だけど今は違う。中学生以上だったら、じゅうぶんひとりで生きていくことはできる。



それなのになぜ、わたしたちは誰かと一緒にいることを望むんだろう?「生きていくため」じゃないとしたら、なぜなんだろう?



ひとりはさみしいから?誰かと一緒にいる方が楽しいから?それも理由のひとつかもしれないけれど、なんかしっくりこない。 



なぜ誰かと一緒にいたいと思うのか。わたしは、「可能性を広げるため」なんじゃないかなと思う。





 
こないだまで世界をひとりで旅していたのだけど、 旅の最中に、ひとりは、圧倒的に選択肢が少ないということに気づいた。あらゆる場面でそう思った。




たとえば外食をするとき。旅をしているとほぼ9割外食になるのだけど、 どこへいっても1品しか選べない。ひとりでは食べきれないから。もしこれが誰かと一緒なら、3品、4品と注文できる。もちろん理論上はひとりで3品でも4品でも頼めるけれど、現実的じゃない。 


それだけじゃない。ひとりだと入りにくいレストランも、誰かと一緒なら入りやすい。


その地域のことを知らず、手頃な食堂でご飯をすませるはずだったところを、もし誰かと一緒にいたら、その誰かが、驚くべきおいしいお店を知っていて、案内してくれるかもしれない。





ひとり旅中にゴールドコーストへ行ったとき、そこに住んでいる友人がレンタカーを借りて、美しい洞窟へ連れて行ってくれた。その帰りに、車を止めてオーストラリアの美しい星空を見せてくれた。


これはひとりでは絶対に見られなかった景色だ。ひとりだったらわたしはレンタカーを借りようという気にすらならなかったし、洞窟へ行こうなんて絶対に思わなかった。星空がきれいに見えるスポットだって全く知らなかったし、そんな美しいものの存在すら知らぬままだっただろう。


彼らとゴールドコーストの海へ行ったときもそうだ。ひとりだと、ただ砂浜で寝っ転がったり、足を水につけてちゃぷちゃぷするくらいだ。けれど彼らと、サーフィンをやろうということになった。今まで一度もやったことのないサーフィンを、ひとりだったら「やってみよう」と思っただろうか?




わたしは旅で、ひとりでいることの選択肢の少なさと、誰かといることによる可能性の広がりをものすごく感じた。だから人は人といることを求めるんだな、と納得した。自分ひとりでできることは限られているし、広い世界を知ることは絶対にできない。自分が知らない何かを教えてくれるのは、他人以外いない。


人といることで、自分では考えもしなかった選択肢が増える。それはイコール、自分の可能性が増えているということ。もちろん自分が受け取るばかりでなく、相手も自分といることで、常に可能性が広がっている。




そう思うと、人と一緒にいるって、素晴らしいことだなあと思う。






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ひとりで海外へ出かけたり、ヒッチハイクをしたり、会ったばかりの人の家にずうずうしく泊まらせてもらったりしていると、人から「行動力があるね」「度胸があるね」と言ってもらうことがある。


人から褒めてもらうのはうれしくて、「そうか、わたしは行動力があるんだな」「わたしって度胸あるんだ」と思っていた。


だけど世界をひとりで旅してみて、その自信はへし折られた。



飲食店にひとりで入ることができずに、店の前を何度も行ったり来たりしている自分。

ドミトリーで一緒になった外国人に、話しかけたいのに勇気がでないでいる自分。

まったく外国人の友だちができず、結局日本人にばかり頼っている自分。



そんな自分に会うたびに、なんでわたしはこんなことすらできないんだろうと落ち込んだ。全然むずかしいことじゃないし、簡単にできてしまう人は沢山いるのに、「行動力がある」「度胸がある」はずのわたしが、こんなこともできないのか。みんなに褒められて得意になっていたけれど、全然だめじゃん。



オーストラリアでのことだった。ひとりで飲みに行こうと思い、街に出てきたはいいけれど、いつものように、バーの前で、中に入れず二の足を踏んでいた。ほんとうに勇気がないな、と少し落ち込んだときに、ふと「自分に対する評価を、ものすごく高くしているから、そのギャップが苦しいんだな」と気付いた。自分のことを「行動力があって度胸があってすごい!」と思い込んでいるから、そうじゃない自分を情けないと感じていた。

それってすごくアホらしいな、と思った。もう、「できない」と認めてしまえばいいじゃないか。わたしは行動力もなければ、度胸もない。勢いよく世界に飛び出したはいいけれど、中身は小心者でダメダメなやつ。それでいいじゃんか。


不思議なことに、自分のことをダメなやつと認めてしまったら、とたんに楽になって、すんなりバーに入ることができた。そのとき自分の中でできた合言葉は、「どうせかっこ悪いんだから」だった。


たぶんわたしは、「かっこ悪いと思われたくなかった」んだと思う。他人にかっこ悪いと思われたくないし、かっこ悪い自分も見たくない。

店にひとりで入れないのも、「周りが超盛り上がっているのに、わたしだけひとりで、さみしいやつって思われたらどうしよう」と思っていたからだし、外国人に話しかけられないのも、「下手な英語を笑われたらどうしよう、うまくコミュニケーションが取れなくて、変なやつだとおもわれたらどうしよう」と思っていたからだった。


「どうせかっこ悪いんだから」と、開き直ってから、いろんな場面で勇気を持つことができた。「大丈夫、できる」ではなくて、「どうせかっこ悪いんだから、恥かいたっていいじゃん」「どうせ英語下手なんだから、笑われたっていいじゃん」と、気楽に考えることができるようになった。

そして、やっぱり勇気が出なくて行動できないときも、「しょうがないじゃん、できないんだから」と思うことで、自分を認められた。すごくすごく楽になった。


わたしたちは、自分が「できること」に対して自信を持つことが多い。だけど、自分を情けないと思ったり、ふがいないと落ち込むのは、その「できること」に対する自信のせいだったりする。だからもうできない、かっこ悪いと割り切って、さらにどうせかっこ悪いんだから!と開き直ってしまえばいい。

できない、かっこ悪い自分を認められることが、自信なんだと思う。




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西加奈子さんの『漁港の肉子ちゃん』を読んだ。あたたかい話だった。

何人もの糞男に騙され続けた果てに、東北の漁港で暮らすことになった肉子ちゃんと、その娘キクりんの物語。

まるまる太っている肉子ちゃんは、誰のこともすぐに信じてしまうお人よし。これでもかというほど明るくて、ゴウカイ。誰とでもすぐに仲良くなる。キクりんがだいすき。
キクりんはクールで知的。思慮深くて慎重。自分の立ち位置を知っていて、うまく立ち振舞うこともできるけど、ほんとうはすごく不器用で、すごく優しい。肉子ちゃんのことは大好きだけど、それを口にしたり、態度で示すのが恥ずかしい。

どんな噂もすぐに知れ渡ってしまうような小さな漁港で、親子が町の人たちと関わりながら暮らしている様子が描かれている、心温まる作品。クールなキクりんが、肉子ちゃんに心の中で入れるツッコミが笑える。





呆れるほど明るい肉子ちゃんと、繊細なキクりん。対照的なふたりが、親子として生活している様子が、リアルな絵で描くことができる。
わたしはどちらかというと、キクりんに似て、いい意味でも悪い意味でも物事を深く考える性格なので、肉子ちゃんのまっすぐすぎる性格をうらやましく思う。肉子ちゃんくらい素直でいられたら、幸せなんだろうなあ。きっとどこへ行っても、何をしていても幸せを感じられる。

肉子ちゃんのように、とまではいかなくても、わたしたちも日々の「普通の生活」の中に、いくらでも幸せを見出せるはず。それがとても「幸せ」とは言い難い状況だったとしても。



キクりんの友達のマリアちゃんが、クラスで孤立してしまう場面がある。マリアちゃんがクラスのリーダー的存在の女の子を孤立させようと画策し、キクりんを囲い込もうとしたが失敗して、結果クラスの全員からハブられてしまう。一時ではあるが、キクりんもマリアちゃんから無視されたり、蔑んだ目で見られたりなどの攻撃を受けた。だからマリアちゃんが孤立しても、助け舟を出そうとしなかった。
キクりんは、そのときの、自分の中にあるどろどろとした感情に気づかないふりをしていたけれど、どろどろとしたものはしっかりとキクりんの中にあった。ちょっと変わった男の子、二宮と話しているときに自分の本心に気づく。

私って、なんて狡い子なんだろう。なんて狡くて、嫌な子なんだろう。
ひとりぼっちになっているマリアちゃんを見て、ざまあ見ろ、って思ってた。マリアちゃんがひとりぼっちになる前から、マリアちゃんを疎ましく思ってた。皆に、ちやほやされて、私は、嬉しかった。マリアちゃんより、キクりんの方が好きって言われて、それで安心してた。マリアちゃんの大きな家が、屈託のない自信が、綺麗な浴衣が、私は羨ましかったのだ。
 
自分の中の醜い部分は誰にでもあって、だけどなんでかみんな、自分の中から排除しようとする。だけど、ちゃんと気づくだけでいいんだと思う。ちゃんと本心に気づくこと。あ、わたし、嫌な奴だ(笑)って思うだけでいい。

わたしもいつも「わたしって超嫌な奴だな(笑)」って思っている。だけど「まあ、それがわたしだし、仕方ないか」って思うと、自分を嫌いにならなくてすむ。



終盤で、キクりんが入院するシーンがある。お見舞いに駆けつけた、肉子ちゃんが働く焼きにく屋の主人、サッサンの言葉がすごいしみる。

生きてる限りはな、迷惑かけるんがん、びびってちゃだめら。 生きてる限り、恥かくんら、怖がっちゃなんねえ。子供らしくせぇ、とは言わね。子供らしさなんて、大人がこしらえた幻想らすけな。みんな、それぞれでいればいいんらて。ただな、それと同じように、ちゃんとした大人なんてのも、いねんら。

おめさんが、いっくら頑張っていい大人になろうとしても、辛え思いや恥しい思いは、絶対に、絶対に、することになる。それは避けらんねぇて。だすけの。そのときのために、備えておくんだ。子供のうちに、いーっぺ恥かいて、迷惑かけて、怒られたり、いちいち傷ついたりして、そんでまた、生きてくんらて。
 
最近よく思うことがあって、それは「生きるということは、恥を積み重ねていくこと」ということ。こうやって文章を書いていると、過去に書いた(ときには昨日書いた)文章を「なんだこれっ!こんな恥ずかしいこと書いていたのかわたし!」と思うことがしょっちゅうある。というか、生み出した文章のほぼすべてにそう思う。「よくもまあ、こんな恥ずかしいものを、世の中に発信したもんだよ…」とその時の怖いもの知らずな自分をほめてあげたくなる。


過去の稚拙で恥ずかしい創造物を見て、顔から火が出るくらい恥ずかしい思いをするのは、クリエイターにかかわらず誰にでもある経験だと思うけれど、それでも自分を表現することは、やめられない。わたしの場合は、こうやって誰の役に立っているんだかわからない文章を、発信せずにはいられない。



恥ずかしいと思うことは、ちゃんと「今の自分」を出し続けた証拠なのだと思う。だから、生きるということは、いや、自分らしく生きるということは、恥をかくことから切り離せない。わたしは毎日恥を積み重ねながら、今を生きている。



生き恥を晒して生きることの素晴らしさを、肉子ちゃんやキクりん、漁港の人たちが教えてくれてた。

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世界をまわるのに、わたしの荷物は4.7キロのバックバックと、2〜3キロの普段使いの斜め掛けバッグだけ。7キロほどの荷物とともに、旅をしている。


そんなわたしの姿を見ると、みんな必ず「それだけ?身軽だね〜」と言ってくれる。だけどわたしは、5キロのバックバックでもすごく重いと感じるし、2キロのバッグと共に街を歩いているのも肩が疲れてしまう。いつも、「もっと身軽になりたい」と思っているし、もっと荷物を減らせると思う。


旅をしていると、「ストックを持つ」という感覚がなくなる。旅において荷物が重いことは悪で、「なくなったときのために買っておこう」という考えを捨てるしかない。先の不安を解消するためにいま必要ではないものを持った結果、荷物が増え、重くなり、移動がおっくうになるなんて本当にありえない。

大抵のものはどこでも買えるし、なくなったら買えばいい。買えないのなら借りればいい。生きていく上で、「あったら便利なもの」は無数にあるけれど、「なくてはならないもの」は驚くほど少ない。



話はそれるけれど、世界を旅していて「なくてはならないと思っていたけれど、実際はなくてもぜんぜん余裕」だと気付いて驚いたのが、スキンケア製品と化粧品だった。

わたしは肌がすぐに荒れる。ストレスや食生活が乱れですぐにニキビができるし、かと思えば乾燥して肌がボロボロになるし、とにかく一年中なにかしらの肌トラブルを抱えている。だからスキンケアなしでは生きていけない。と思っていた。

スキンケアは、物心着いた頃からわたしの身近にあった。中学生の頃からひどいニキビに悩まされていたので、母に買ってもらったニキビ用のスキンケアを使っていた。大学生になり、ある程度自分でお金を稼げるようになってからは、百貨店にあるような少し高級なスキンケアメーカーをライン使いしたりして、とにかく肌トラブルが改善するよう努力と出資を続けてきた。



世界を旅するにあたって、スキンケアをどれだけ持っていくかすごく悩んだけれど、「身軽さ」を優先して、化粧水を1本だけ持っていくことにした。男性はあまりわからないと思うけれど、今までフルラインでスキンケアを使ってきたわたしとしては、環境が合うかどうかもわからない、水もよくないかもしれない未知の国へ行くのに、化粧水1本しか持たないというのは、結構勇気のいることだった。

だけど心配は要らなかった。化粧水1本で、じゅうぶんすぎるほとじゅうぶんだった。肌になんの変化もない。日差しの強い厳しい環境でも、まったく問題なく過ごすことができた。

むしろ、化粧水しか使わないおかげか、皮脂が多く出るようになり、肌が乾燥することが全くなくなった。テキトーに化粧水を塗っただけで、朝起きたら皮脂でうるおっている。なにこれ、すごい!

今ではもう化粧水さえも使わなくなった。それでも洗顔後に肌がつっぱることはないし、むしろ高いスキンケア製品をラインで使っていた頃より肌の調子が良い。わたしは何十万、もしかしたら何百万もかけて、肌本来の美容成分を封じ込めていた。「お金をかけたのに何も効果がない」どころか「お金をかけて肌をいじめていた」のかもしれない。


同時に、ファンデーションを使うのもやめた。決して肌に自信があるわけではないし、正直隠したいのだけど、使わなくなって「別になくてもヘーキ」ということに気づいた。ファンデをしてもしなくても、何も変わらない。シミはあるし、毛穴は開いているし、ニキビ跡はある、、、美しいとは言えない肌だけど、ちゃんとモテるし、デートもできるし、みんな優しく接してくれる。隠さなくてもぜんぜん大丈夫だった。

肌がキレイだろうがキレイじゃなかろうが、人は優しい。


ファンデを塗りたくって、肌を隠していた頃の方が、自分に自信がなかったような気がする。「きれいじゃないけど、これがわたしだし、仕方ない」と完全に割り切った今では、すっぴん肌で平気で初対面の人に会うし、デートもするし、クラブにも行く。すっぴん肌になってからの方が、積極的に外へ出るようになった。「もう隠すことないじゃん」みたいな感じで、心が開放的になった。

物理的に、汗かいても化粧崩れの心配がないから、ストレスが一つ減る、というのもいいところ。





実際にやってみてわかったのだけど「ストックを持たない」というのはすごく心地よくて、本当に心が軽くなる。ストックを持たないのは、つまり「未来への不安を持たない」ということだと思う。

将来が不安だからストックを抱えて安心する、というのが普通の考え方だけど、実際に起こることは真逆で、ストックを持つから不安になる。ストックはどれだけあっても安心することができない。お金を心配して生きている人が、いくらお金があっても安心できないのと一緒で、ひとつストックを持ってしまえば、芋づる式に不安は増えていく。ひとつじゃ不安だから、2つ買っておこう。お腹が空くかもしれないから、たくさん買っておこう。事故にあうかもしれないから、保険に入っておこう。なにがあるかわからないから、貯金しておこう…。

そんなふうに、あちらこちらから不安の種が生まれて、安心することができない。

逆に、一切ストックを持たないと気持ちに余裕ができる。というか、開き直る。「なくなったらその時考えよう。今心配することじゃない。なんとかなる!」と思える。余計な不安から解放され、ストレスが減る。


そういえばわたしは、旅に出てから痩せた。食料に関しても一切ストックを持たなかったので、本当にお腹が空いた時だけ、必要な量だけ食べていたら勝手に体重が減った。(そしてストックのある日本へ戻ってきたら太った)

ストックのある生活は、いらない不安といらない脂肪を生む。




来月からまた海外へ行くのだけど、そのときは今よりもっと身軽に行きたい。もっと小さなバックに、必要なものだけを入れて。

より軽く、より自由に。より少なく、より豊かに。




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