2016年04月



わたしの大好きな本の中に、「神さまとのおしゃべり」という本がある。




著書のさとうみつろうさんが、神さまとおもしろおかしくおしゃべりをしながら、宇宙の仕組みや人生の動かし方について学んでいくというストーリー仕立ての自己啓発本(?)だ。


その冒頭に、こんなことが書かれている。


「この世の原理原則はたった1つ。その人の現実に、その人が望んでいないことはなに1つとして起こらない。この世は全て、その人の望み通り


え、ちょっとまってよ!ちっとも思い通りになんて行っていない!と思う人もいるかもしれない。 でもそれは、願いが叶うころに本人が願ったことを忘れていたり、願いが複雑で、叶ったこと自体に気づけなかったり、まちがえた願い方をしたせいで、変な形で叶ってしまったりしているから、らしい。


わたしはこの本に書かれていることは真実だと思っていて、「自分が願ったこと(=思ったこと、考えたことはすべて願ったことと同じらしい)がすべて現実になっている」というのは本当に本当だと確信している。




先日美容院へ行った。わたしはあまりマメじゃないので頻繁には行かないのだけど、そろそろプリンがやばくなってきたので、仕事が休みの日にいつもの美容院を予約した。いつものことだけど、当日になって行くのが面倒くさくなった。


わたしの行きつけの美容院は名古屋にあり、わたしの家から電車に乗って行かなければならない。休みの日まで名古屋いくのめんどくさい。電車乗るのめんどくさい。乗り換えめんどくさい。歩くのめんどくさい。てかもう地元の美容院でよくない?なんで美容院へ行くのにわざわざ名古屋までいかなきゃいけないいんだよ…と自分が予約したにもかかわらず、もんもんと考えていた。


でもいつも担当してもらっている信頼のおける美容師さんだし、プリンもなんとかしたいので、めんどくさがりつつも重い腰を上げて美容院へと向かった。 そして詳しくは書かないけれど、「もう、この美容院に通うことはないだろうな…」と思う出来事に見舞われた。




それはあまりいい気分の出来事ではなかったので、美容院を出たとき、「せっかくの休日に、名古屋まで来て、なんでこんな思いをしなければならないんだ…」と落ち込んだ。


暗い気持ちで電車に揺られていると、あることに気付いた。「あれ?わたしもうこれで、わざわざ名古屋の美容院に行かなくてもいいんじゃないか?」って。


「もうこの美容院には二度と行かない」ってことは、「もう名古屋までわざわざいかなくていい」ってことで、それっていうのはつまり、「あーめんどくさい。名古屋までいちいち行きたくない」っていう自分の思い(願い)を思いっきり叶っているじゃん。


ただそれが、「いい気分じゃない」「あまりよろしくない出来事」を通じてだったので気づかなかったけれど、100%願いが叶っている。




それともうひとつ。わたしの家の最寄りは岐阜県にある多治見という駅で、名古屋へ出るまでに山を越えるため、少しの間、電車から美しい景色を眺めることができる。


けれど向かい合わせの座席に座ってしまうと、景色をよく見ることができない。行きの電車はガラガラだったので、わたしは座席に座り、窓の切れ間から見える景色を「もっとよく観たいなあ」とぼんやり思った。


かといって立ってドアの近くに立つまでのこともなかったので、そのまま座ったままでいた。


帰りの電車に乗り込むと、ちょうど満席だった。仕方なくドアの近くに立っていると、電車が岐阜県にさしかかったとき、美しい山々の景色をしっかりと観ることができた。


そうか。「座れない」という一見うれしくない出来事を通じて、「景色が観たい」という願いがかなったんだな、と思った。





このふたつの出来事はどちらも「あまりいいことでない出来事」を通じて願いを叶えてくれている。でもどちらも願いは叶っている。


「願いが叶う」と聞くと、なにかしらのハッピーな形で叶うことを想像するけれど、実は不幸な、うれしくない、嫌な体験を通じても、願いが叶うことはよくあるんだと思う。






人は、自分が願って叶ったことなのに、自分が願ったが叶っていない、自分の思い通りになっていないと感じたときに悩む。でも、この宇宙の法則はただひとつ。


「願ったことはすべて叶っている」




とはいえ、やっぱり叶うならハッピーな形で叶って欲しい。だからお願い上手になりたいなあと思う。宇宙へのお願い方法の、お願い上手。上手にお願いすれば、きっとハッピーな方法でたくさんのことを受け取れるのだと思う。まだまだ練習が必要だなあ。
 





わたしの人生観を変えたおすすめの本です!ぜひ。

 
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わたしたちは、生まれたときはまっさらだった。なんの価値観も、偏見も、善悪の判断もない、すべてをありのままに見るまっさらな状態だった。


だけど少しずつ、親や家族、友達などの周りの人や、メディアなどの影響を受け、価値観や善悪を取り入れていく。そして少しずつ「◯◯してはいけない」「◯◯しなくてはいけない」という固定概念に縛られていく。



価値観や善悪の判断を身につけていくのは、成長する過程で必要なものだけど、固定概念は生きる上で足かせになってしまう。固定概念が重く足を縛り付けていることで、羽を持っていても自由に空を飛び回ることができない。結果、やりたいことができない、行きたいところへ行けない、生きたいように生きられない、ということになり、息苦しくなる。



わたしたちは成長とともにいろんなものを吸収していくけれど、ある地点から、それらの身につけてきたものたちをそぎ落としていく時期が訪れる。少しずつ、時間をかけて、張り付いてしまった固定概念や、偏った考え、当然だと思っていた常識などを、そぎ落として本来の自分に戻る作業が必要。





長年かけて身につけたガチガチの価値観や偏りだから、もちろんそれらを手放すのには時間がかかる。だけどそぎ落として本来の自分に戻ろうという意志があれば、少しずつ、少しずつ、ポロポロと落ちていくのを感じることができる。



身につけてしまった、価値観・偏見・善悪・固定概念・常識などの足かせ・鎧を身動きをとれなくする鎧を剥がしていけば、すごく楽に生きられる。


「◯◯をしなければいけない」
「◯◯をしてはいけない」
「◯◯をすべき」
「◯◯をしたほうがいい」

これらのカンチガイから解放されたその先にあるものは、「やりたいか、やりたくないか」ただそれだけ。



わたしたちは、ただただやりたいことをやり、やりたくないことをやらない。人生はただそれだけなんだと思う。


まだまだわたしには、そぎ落としたい凝り固まったものがたくさんある。何年かかるかわからないけれど、少しずつそれらを手放して、自由になりたいと思う。
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いろいろあって、ここ最近ほとんどものを食べなくなった。完全な不食じゃないけれど、食べる量は今までの10分の1くらい。


無理して食べないようにしているわけでも、我慢しているわけでも、これだけしか食べない!と決めているわけでもなくて、カラダの声に従った結果、この量になった。




以前から感じていたのだけど、わたしはあまりお腹が空かない。すごく燃費効率の良い身体なんだと思う。人の1食の量で十分に1日過ごせるし、なぜみんなそんなに1日にがっつりと何食も食べられるのか不思議だった。


もちろん食べようと思えば人並みに食べられるけど、基本お腹が空かない。朝ごはんを食べたら夜まで空かないし、お昼ご飯を食べたら次の日まで空かない。


わたしはもしかしたら、原始時代や飢餓時代など、食べ物が不安定のとき長く生きられる、生命体としては優秀なカラダのつくりなのかもしれない。 でも現代社会では、その体質は問題だった。


美味しいものがいつでもどこでもカンタンに手に入るこの時代は、刺激と誘惑だらけ。我慢が苦手なわたしは、目の前に食べ物があればついつい手を伸ばしてしまうし、ちょいと小腹がすいたら家の冷蔵庫をのぞいてしまう。何度も。


もともと少しの食べ物で十分な体質なのに、それ以上に食べてしまえば当然太る。なのでわたしの身体にはもれなく贅肉がついてしまった。 贅肉がつくのは、必要以上の栄養を摂り過ぎて消化しきれなかったから。いざ食べられなくなったときのためにエネルギーを蓄えておこうとする身体の機能。


ということはいま、わたしの身体にはありあまるエネルギーが蓄えられているということになる。つまりわたしは別に食べなくてもすでにエネルギーを持っているということ。


「食べないといけない」という思いこみがあるだけで、別に食べなくてもいいんだ。だってたくさんエネルギーを蓄えているんだから。




「食べないと元気が出ないよ」という人がいる。けれどそれは完全に間違いで、余分な脂肪を蓄えていながらさらにエネルギーを摂取するのは、ただ刺激を求めているだけ。身体の欲求ではなく、単なる欲望にすぎない。


わたしはさっきも言ったけれど、「食べない」と決めたわけじゃなくて、「お腹が空くまで食べない」と決めてみた。そうしたら思いの外お腹が空かなくて、結果として食べる量が10分の1くらいに減った。



もう本当に、お腹がぜんぜん空かない。悲しいくらいに。「あ、空いたかな?」と感じることはあるけれど、「本当にお腹が空いているのかな?」と身体に聴いてみると、答えはノー。偽の空腹感は10分もすれば忘れてしまう。


だから身体の声を聞いて過ごしたところ、1日の食事がオレオ1枚とゆで卵1つ、なんていうことになってしまっている。 (そんな食生活になって10日目の今日は、少し量が増えて、鶏肉1切れとオレオとベビーチーズ1切れに増えている)



はじめの3日間は辛かった。辛かったというか、ふらふらして元気が出ず1日中寝ていた。普段摂っていのエネルギーが体内に入ってこないため、エネルギーを温存しようとする身体の防衛本能からなのか、冬眠に近い状態になり、寝ても寝ても眠たかった。


でも4日目から、次第に楽になっていった。多少立ちくらみはするものの、普通に動ける状態になった。そして1週間を過ぎたあたりからはいつもと変わりない状態になり、そして10日目の今日、すごく身体が軽くなているのを感じる。


いつもはぜぇはぁ言っている階段を、2段飛ばしで小走りできるほど元気いっぱい。お酒の量も減って、体重も減っている。でも「痩せた」というより、この10日間で「むくみが取れてスッキリした」という感じ。


具体的な変化としては、

シャツのボタンを留めるとき、余裕ができたのを感じる。腰に手を当てたとき、肉の厚みが薄くなっていることに驚く。朝起きると身体が軽い。心が安定している。




今までわたしはいったいどれほど必要のないエネルギーを摂っていたんだろう…。ぜんぜん必要じゃなかったのに、必要なことにして、必要なんだと思い込んで摂っていたエネルギー。それらはもれなく余分な脂肪になり、身体に蓄積されていたんだ…。はあ。


 



でも以前のわたしは、「食べないなんてありえない」って思っていた。食べることが大好きだった。


でもあまり食べなくなって、今まで「本当に味わって」食べていなかったんだなあということに気がついた。だって今は、少しの食事で、すごく味わって幸せを感じながら食べられているから。前の食事より数倍おいしく感じる。





まだまだ始めたばかりだから、また変化があるかもしれないけれど、今のところは食べなくても元気ですごしています。




 
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最近、「我」がめちゃくちゃ強い人に会った。



その人は「わたしはこれがやりたい!」「わたしはこうしたい!」「わたしはこうなりたい!」「わたしはこう思う!」「わたしは」「わたしは」……と周りの反応を気にせず「わたし」を連発していた。


一般的に、「わたしはこう思う」と自分の意見をちゃんと言えることはよいこととされているし、自分の意見を持つことの大切さはもちろんわたしも感じている。だけど度がすぎるとマジでめんどくさい。


その人は周りに自分の考えに対する意見を求めているようで、実はまったく求めていなかった。自分の考えと違う意見には「それはわたしの考えと違うから」という感じでシャットダウンし、なかったことにする。「こうしたい」「こうなりたい」という自分のビジョンを「どうやったら達成できるか」ということだけが重要なのだ。


そしてあまりにも思い描く理想やビジョンが明確すぎるので、わたしを含め周りの人は「じゃあ、がんばってください…」としか言いようがなかった。「じゃあ思う通りにやったらいいじゃないですか」と。



そんな感じなのでその場はその人のマシンガントークに終始した。わたしは虚ろな目でその人をながめながら、「ああ、少し前のわたしじゃないか…」と思っていた。





少し前のわたし。それは明確なビジョンと理想を掲げて、「こうしたい!」「こういうことをやりたい!」といたることろで発信していた。経験上、やりたいことを発信すると必要なものが集まってきて、なんか知らないけれど達成できる、と思っていたからだ。


でもなんか今回は必要なものが集まってこないぞ…?あれ、おかしい。どうしてだろう。発信が足りないのかな。もっと発信しよう!


…やっぱり何も起こらない。もちろん待っているだけでなく、ビジョンを実現するための行動もしている。なのに夢や目標をかなえるときに必ず起こる「化学反応」「偶然の出会い」「セレンディピティ」がまったく起こらない。水中をばたばたともがいて、波紋がまったく広がっていかない感覚…





これはおかしいと思い、いったんストップしてみた。自分を見つめ直す期間として。




そんなときに会った「我」の強すぎる人と自分を重ねて、「ああ、だからわたしはうまくいかなかったんだな」と思った。 


わたしの理想・ビジョンには、他人が入り込む余地がなかったのだ。自分の理想通りにしたいという想いでいっぱいで、周りの人に「わたしの理想を達成するために手を貸してください」と言っていたのだ。いやもちろん、ある一人のビジョンに共感して人が集まり、夢を叶えていく…というのはあるのだけど、わたしの場合、そこにあまりにも「我」が入りすぎていた。うまくいえないけれど、「我」の塊だったのだ。


「我」の強い人を目の前にして心から思ったのは「こういうふうになりたくない」「この人と一緒にいたくない」だった。そう思う人と同じことをしていたんだから、、、そりゃあ何も進まないわけだ。




「こうなりたい」「こうしたい」という情熱は大切だしわたしももち続けたい。だけどその想いが強すぎて周りが見えなくなっていたり、その通りにならなければいけない、その通りにならなければ成功といえない、と思うのは行き過ぎだ。


「こういうふうにしたいけど、ちょっとくらい違ってもいっか。あはは」「こういう方向性に進みたいけど、日々考えも変化するし、まあいいかんじになったらいいや」くらいのゆるいかんじがちょうどいい。


気持ちにも余裕ができるし、余裕があるところに出会いや発見など、新しいものが舞い込んでくる。


目標やビジョンに向かって情熱を燃やして計画や準備を重ねて……というのもすばらしいけれど、わたしはそうしている人をすばらしいと思えなかったので、その方法は手放そうと思う。

 
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「今を生きる」ってどういうことだろう?


わたしたちは「今」という瞬間にしか生きられない。過去にも未来にも生きることはできない。それは誰もがわかっている。


けれど気持ちが過去や未来を生きている、ということはよくある。過去の出来事を思い出して悔やんだり、未来のことを心配して不安にかられたりするときだ。


そういうときわたしは「今を生きていないなあ」と思うのだけど、では一体「今を生きる」ってどういうことなんだろうか?確実にわたしたちは今を生きているわけだけど、そういう意味ではなく、思考が過去にも未来にもいかず、今にあるというのは、どういうことなんだろう?




わたしは夢や目標を持って、それに向かって楽しく生きていきたいと思っている。なので夢や目標が見つけられないとき、見失っているときなど、何もせずに家にいると「これでいいのかな」「何もしないと前に進んでいない気がする」と思っていた。


でもそれは、「未来を生きている」ということだ。それって、今にすごく失礼なんじゃないだろうか。


ずっと未来のことばかり考えて生きてきたら、いつ「今」を生きればいいんだろう?今を生きずに生きるのって、せっかく生きているのに、すごくもったいないな。生きてるっていうことを謳歌していないなと感じた。




わたしの友人に、とても真摯で誠実に生きている女性がいる。迷いながらも自分の信じた道を日々丁寧に生きている。



「毎日を大切にする」って、「今を生きる」って、なにかすごく壮大なことのように思っていたけれど、全然そんなことないのかもしれないなと、たわいもないわたしの話を興味ぶかげに聞いてくれる彼女をみて思った。


例えば観たい映画を見て、色んなことを感じる。おもしろい、悲しい、楽しい。自分の経験と結びつけて考察したり、知らないことを知れてうれしくなったり…。そんな何気ない、家でDVDを見て過ごす休日。そんな日々も、すごく大切。


自分が思ったこと、感じたこと、観たもの聴いたもの。それらを大事にする。自分の感情を感じる。それが毎日を丁寧に生きることであり、今を生きているっていうことなんじゃないかな。


すごくちいさなことだけど、人生ってそういうちいさな毎日の積み重ねだから。


何気ない毎日を素晴らしいものにするのかしないのかは自分次第で。それは何をしたとか、しなかったとかではなく、単純に自分が「そう思うか」「思わないか」だけ。


自分が認めれば、すべての意味は変わる。 そう思わせてくれる友人を持てたのは、すごく贅沢で豊かだなあ。これからもわたしは、未来でもなく過去でもなく、今を見て生きたいと思う。






未来をみていると、今に感謝できない。 自分がしていること、食べる、書く、歩く、笑う、泣く…。


それらのことをすごいことだって、ちゃんと認識すること。自分が感じている感情、うれしい、かなしい、たのしい、しんどい…それらの感情ときちんと向き合うこと。自分を知ること。それらを深く深く感じて、自分はこういう人間んなんだと知って、感じて思ったことを表現すること。これが生きていくということ。


自分のしていること、自分が感じていることはすべてが素晴らしいのだと知れば、みらいの不安は自然となくなる。今のすべてを肯定すれば、未来の不安はなくなる。だって、自分に起こるすべてのことがすばらしいのだから。
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