カテゴリ: ひとりごと



今ニューヨークにいるんですが、あまりにも楽しくてどんどん滞在日数が増えていきます。


ニューヨークでは予期せぬ出会いがたくさんあって本当におもしろい。これだけ多くの人がいるから、出会いは必然なのかも。


でも、一人でいてもすごく楽しい。世界中いろいろ回って、こんなにも「一人でも楽しい街」は初めてかも。


街並み、お店、アート、芸術、人々、ハプニング(笑)、、、なんでも揃っているから一人でいてもまったく寂しくなくて。大好きなSex and the Cityで、主人公のキャリーが「街とデートしている」っていう表現が、すごくぴったり当てはまる。毎日街とデートします。






ニューヨークに来たのは、ブルックリンに行ってみたかったから。ブルックリンは昔は工業地帯で治安も悪かった地区だけど、今は流行の発信地。マンハッタンとは少し違った、肩肘張らないラフは空気が流れています。


煉瓦づくりの建物と、古い建物をリノベして良さを残しつつスタイリッシュに蘇らせるところがいいなあと思っていて、ずっと来てみたかった場所。


思った通り、ゆるくていい感じ。オシャレなお店もたくさんあるし、おもしろいです。







でも、こっち来て気づいたのが、「わたしはマンハッタンの方が好き」っていうこと。マンハッタンの、ごちゃごちゃして、だけどどこか洗練されていて、いろんな表情を持つマンハッタンが好き。


マンハッタンを歩いていると、うきうきしてくる。多分わたしにすごく合っているんだと思う。




でもマンハッタンからブルックリンに来ると、ちょっとホッとするというか。こういう雰囲気もいいなーって思う。だから「どっちがいい」っていうわけじゃなくて、どっちもいい。


どっちのテイストも、好き。



マンハッタンのキラキラ(ギラギラ?w)した雰囲気も好き。


ブルックリンのゆるい感じも好き。


オシャレしてハイヒールで出かけるのも好きだし、Tシャツとスニーカーで歩き回るのも好き。みたいな感じかな。






少し前までは、自分を定義したがっていたんだと思う。「わたしはマンハッタン派」、「ブルックリン派」みたいに。どっちかを選んだら、もう一方は選べない、みたいに。


でも、どっちも好きなんだもん。どっちのテイストも、わたしの中にあるわけだし。


きっと自分を定義したがっていたのは、「中途半端はだめ」みたいな思い込みがわたしの中にあったから。でも今はぜんぜん思わない。どっちもわたし。どっちもわたしなんです。


そんなわたしだから、中間のブルックリンブリッジが好きなのかもしれない(笑)

 
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人は可能性の中で生きていきたい生き物なのだと思う。


「◯◯ができたら、〜〜をしよう」と、未来への可能性の中に生きている間って、実は安心で安全なのだ。だってそうやって考えている間は、何にもチャレンジせず、何にも飛び込まず、ただただ未来に思いを馳せているだけでいいのだから。


だから未来のことを考えて生きるのはとても楽な生き方だ。


もしお金があったら、
もし時間ができたら、
子どもが大きくなったら、
あれがあったら、
これがあったら、◯◯しよう。


そう考えている時間は楽しい。けれどわたしは、それはすべて幻想であり嘘だと思う。その◯◯が達成されても、大抵の人はその「やりたかったこと」をやらない。また他の言い訳をもってきて、やらない。


本気でやりたいと思ったら、◯◯がない状態でも、やろうとする。「◯◯だったらやろう」と思うのは、ただやらない言い訳を見つけているだけで、やらないことに安心している状態で、未来の可能性の中に生きることで安心して生きている。




わたしは長いこと「やりたいことが見つかったら、本気でそれに向かって頑張れるのに」「やりたいことが見つかったら、楽しい人生が送れれるのに」と思っていた。だけどそれは大きな間違いだった。やりたいことが見つかったら、次はそれをどうやって達成するか、という壁にぶちあたってしまった。


「◯◯だったら幸せなのに」「◯◯だったらしたいことができるのに」という考えが間違っていたと、はっきり気づいた。





未来を生きる生き方は、楽だけれどある意味辛い。だって本当の意味で「今」を生きることができないのだから。 どんなに未来に可能性を見出しても、わたしたちは今を生きることしかできない。だとしたら、今できること、今やりたいことをやらないで生きていくことは、自分にうそをついて生きていくことになる。


「今を生きる」というのは、簡単なようでとても難しい。いつもわたしたちの思考は、勝手に過去に未来にとんでゆく。そして「今」を忘れてしまう。


未来の希望を思い描くのは悪いことじゃないけれど、「もし◯◯だったら」と考えてしまうのは、意識的にやめようと思う。もしなりたい姿、したいこと、行きたい場所があれば、「今」実行に移す。ふと思い立ったことを実行に移す。


そうやって行きていけば、未来を見ず、今を生きていける。
 
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人って何かをお願いするとき、人が「いいよ」って言ってくれるのを期待するのと同時に、「どういう風にいいよって言ってくれるか」も期待している。


笑顔でいいよって言ってくれるかどうか。迷惑そうにしていないか。イヤイヤじゃないか。表情や声のトーンから探ったり。


それで、「いいよ」って言ってくれたのに、「なんかちょっと迷惑そう」とか、「本当はいやなのかも」とか勝手に想像して、申し訳なく思ったり、やっぱりお願いするの、やめようかななんて思ったり。



わたしは結構そうやって人の顔色読んじゃって申し訳なく思うタイプ。でも!なんかそれって違うよなーって最近思って。


人が「いいよ」って言ってくれたんだったら、嫌そうだとか、無理やりだとか、そんなの考える必要まったくないんだよね。だって「いいよ」って言ってくれてるんだもん。


本当は嫌で、無理やりいいよって言ってくれたのかもしれないけど、それでも「いいよ」って言ってくれたんだもん。それは事実なわけだし。それに、相手の反応は、相手が決めるもので。こっちが期待した通りの反応をしてくれないことをうだうだ考えてもどうしようもない。


だから、わたしができるのは、「いいよ」って言ってくれたことに感謝して、「ありがとー♡」って伝えることだけなんだよね。


と、ふと思った。



自分の期待通りの反応が返ってこなくてざわざわする必要も、相手の本心を考える必要もないってこと。うん。 
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今日Facebookのタイムラインに流れてきたこの動画。


 


イッテQで、出川哲郎さんがサンフランシスコへ行って「はじめてのおつかい」的なミッションをこなしていくんだけど、ほとんど英語が話せないのに、どんどんミッションをこなしていくの。


もうめちゃくちゃおもしろいんだけど、わたしが伝えたいのはそっちじゃなくて、出川さんの『魂 』のすごさ。魂で伝えるから、めちゃくちゃな英語でも言いたいことが伝わる。


出川さんに同行してる、英語が話せる女の子のタレントが道行く人に話しかけても立ち止まってもらえないのに、英語が話せない出川さんの話はみんな立ち止まってちゃんと聞いてくれる。一生懸命聞いてくれる。

これだよな〜って思った。「できるできない」なんて関係ない。「伝えようとする気持ち」なんだよなあ。



あと、出川さんには「迷い」がない。

「話しかけたら迷惑かな」
「怒られたらどうしよう」
「笑われたらどうしよう」
「変な奴って思われないかな」

そういう「迷い」が一切ないの。もう、「そこに人がいるから聞く」「教えてもらいたいから話しかけ得る」。それだけ。


これ観ちゃったら、なんかもう英語の勉強するのがバカらしく思えてくる。


わたしが英語を勉強しているのって、もちろん海外の人と英語でコミュニケーションが取りたいっていう大前提があるけど、「変な英語で笑われたくない」「喋れないのをバカにされたくない」みたいな思いもどっかにあって。自分を守るための武器として、勉強している、っていう面もあるんだよね。


でもわたしみたいな人って、実際に外国人を前にすると、恥ずかしがったり勇気が出なかったりして、なかなか喋れなかったりする。それは言語力どうこうじゃなくて、気持ち的な面で。日本人のほとんどはこういう感じなんじゃないかな。



留学していたとき、英語力が全然なくて、相手の言っていることの半分も理解できない、でも話すことを恐れずに言いたいことを伝えてた子が、どんどん友達をつくってた。そのときも、「ああ、英語が話せるか話せないかなんて、問題じゃないんだ」ってすごく思ったのを覚えている。



コミュニケーションは、「言語」じゃなくて「気持ち」。アメリカ行く前にこれ観れてよかったー。向こう行って言語の壁に落ち込んだときはまた観ようっと。




庄悟くんシェアありがと! 
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1年前のちょうど今ごろ、世界を旅する準備をしていた。「仕事を辞めて世界へ飛び出す」っていうのがわたしにとってはものすごい挑戦で、「世界一周したい!半年や1年くらい行こう!」と思って準備をしていた。


(だけど実際行ってみたら、もう本当にしんどくて。めっちゃ楽しいんだけど、めっちゃしんどい。毎日がジェットコースターみたい。あまり体力がなく、どちらかというと引きこもりのわたしには刺激が多すぎて、40日くらいで「もう無理」ってなった)





あれから1年経った今思うのは、仕事を辞めることや、世界を旅することを、なんかすごく重く捉えすぎていたな、ということ。沢木耕太郎さんの「深夜特急」をはじめ、いろんな旅の本を読んで、「わたしも旅立つぞ!」と意気込んでみたりしてたっけ。


でも今の時代、世界へ出るのなんてすごく簡単なことだし、気張って「旅に出るぞ!」なんて思う必要ないよなあ。


仕事を辞めるのも、当時のわたしはすごく大きなことだったけど、今考えるとぜーんぜん。「今日は雨だから遊びに行くのやめよっか」くらいの気持ちで「辞めたくなったから辞めよっか」くらいでちょうどいいような気がする。



わたしも昔は「一度しかない人生を精一杯生きよう!」みたいに思っていた側の人間だから、そういう気持ちもわからなくはないけど、今は「80年生きるとしたらあと50年以上あるよね。長っ」とか思っている。


もちろん80歳まで生きられる保証はないし、もしかしたらうちの兄みたいに30歳くらいである日突然死ぬ可能性もあるんだけど、でもだからって「今を精一杯生きねば……!」とか思えないし、思いたくもないなーって。だってしんどいもん、その考え方。「もしかしたら明日死ぬかもしれないよね〜あはは」くらいに思っていた方が精神衛生上いいんじゃないかなって思う。



何かを成し遂げたいとも今はもう思わないし、やりたいくないことやめて、やりたいことだけやって生きていければいいと思ってる。ゴロゴロして、食べて飲んで寝る、みたいな生産性のカケラもない生活も別にいいじゃん、って思う。


ちょっと前までは、何もしない毎日なんて、人生の時間を無駄にしているみたいでイヤだったけど、でも、無駄にしているような気がして今の自分を責めている方が人生を無駄にしている、っていうことに気づいたから、ゴロゴロする毎日や生産性のない日々を思いっきり楽しもう、っていう考えにシフトした。そしたら毎日が楽しくて^^







なんかちょっと話がそれた気がするけど、何が言いたいかというと、人生をそんなに重く捉えなくてもいいんじゃないかなってこと。わたしの大好きな為末大さんの本に、「人生は暇つぶしだと思ってからは生きるのが楽になった」みたいなことが書かれていたけど、本当にその通りだと思う。



自分の人生を意味あるものにしてみせる、と意気込んで空回りしている若い人もよく見る。かくゆう僕も、競技人生の前半においては、意味のある人生にしたい、意味のあることを成し遂げたいという思いが強い動機になっていた。でも、メダルを取った頃からふと冷めだした。僕の母が毎日近くの山を登ることと、僕が世界で三番になることの本質的な違いがわからなくなったのだ。


人生は暇つぶしだと思ってから、急に自分が軽くなって、新しいことをどんどん始められるようになった。たかが人生、踊らにゃそんそん、である。


ほんとーに、その通りだと思う。人生は暇つぶし。だから、例えば仕事を辞めるのも、世界へ旅立つのも、何をするのもしないのも、全部暇つぶしのひとつ。だからそんなに重く考えず、やりたいと思ったこと、少しでも興味のあることをやってみたらいいんじゃないかな。もしそれが自分に合っていなかったらまた違うことをすればいい。


そしてなにもしたくなければ、引きこもるのもいいし、家でゆっくりすごすことだって「やりたいこと」のひとつ。



人生は暇つぶし。気負わず楽しもう。って言っても油断すると力はいっちゃうから、わたしも気をつけようと思います。 
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