カテゴリ: ひとりごと



セブ島留学をしようと思い(結局しないけど)お金を貯めるため、去年の10月から、半年間の期限付きで派遣で働いていた。 


契約は4月末まで。


働きはじめて1ヶ月ほど経ったとき、職場の人に「半月だけ延長してほしい。5月15日まで働いてもらえないか」と言われたのでオッケーした。




その職場でははじめ「いい人」を装ってたんだけど、途中から苦しくなってきて、もうどうでもいいやと思い、いい人をやめて休みたい時に休んだり、月末の忙しい時にサボったりしだした。


具体的には、「今日行きたくないな」と思ったら仕事を休んだり、会いたい人がいたら仕事を休んで会いに行ったり、飲み会の次の日はゆっくり寝たいから、月末の忙しい日だったけど無理矢理休みをもらったり。


嫌な顔されたし、面と向かって言われてないけど多分キレられてたと思う。




でも、それでもやっぱり自分が大事だから。ちょっと怖かったけど、実行した。自分を大事にした。


するとどうなったか。







あと1ヶ月ちょっとで契約終了となる4月のはじめのある日、派遣会社の担当さんがやってきて、いきなりわたしにこう言った。



「半年間働くと10日間の有給が発生するんですが、それが取得できるのが4月15日からなんです」



まじで!



ということで、契約は5月15日までだけど、4月いっぱいで仕事を終えて、今は有給消化中。働いていないのにお金がもらえる最高の期間!


はじめから半年間っていう契約だったから、有給休暇のことなんて、考えてもなかった!半月伸ばしてほしいって言われた時も、有給休暇のことなんて頭になかった。でも、いきなりもらえることになったプレゼント。







絶対絶対ぜーーーーーーーったい、これ、わたしがわたしのことを大切にして、自分勝手に振る舞ったから神さまがプレゼントをくれたんだと思う。絶対絶対絶対そう。たぶん、ずっと「いい人」やって、怒られたり嫌われたりするのを恐れて、行きたくない日も会社行ったり、やりたいことがあるのに仕事優先にしたり、休みたい日に休み取らなかったりしてたら、絶対絶対このプレゼントはもらえなかったと思う!



本当に本当に、自分を大切にしてよかった。





前からずっと言っている「自分を大切にする」っていうことだけど、やっぱり今でもいちいち怖い。嫌われるのも怒られるのも怖い。だけど、それでもやるのかやらないのか。やった人だけがもらえるプレゼントがあるんだと思う。


誰が自分を大切にしてあげられるのか。自分しか自分を大切にしてあげられる人はいないから。

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わたしはここ数年、「ほんといい時代に生まれたなあ」と心から思う。ネットのおかげで世界中の情報が簡単に手に入り、LCCのおかげで海外へ行くことのハードルがどんどん下り、SNSのおかげで人と簡単につながれて、たくさんの人と出会うことができる。


たったの数千円でアジアの国々に行けちゃうとか、もうほんとに最高。「お金がない」「時間がない」から海外へ行けない、なんて言い訳ができない時代に20代を迎えられて、本当にラッキーだと思う。






堀江貴文さんの「君はどこにでも行ける」を読んだ。




この本は、日本の現状と、堀江さんが世界中を回って肌感覚で感じた世界の動きや変化、これから世界はどうなっていくのかについて書かれている。


タイトルの「君はどこにでも行ける」だけど、これは物理的な意味ではなくて、精神的な意味だと本を読んでわかった。精神的に「どこにでも行ける」って、どういうことだろう?





去年、タイ、マレーシア、オーストラリア、スペイン、イタリアと旅をしてみて思ったのだけど、世界は広くて、当たり前だけど様々な人がいる。「え?そんなのアリ!?」みたいな暮らし方をしている人たちがいっぱいいて、わたしの価値観をどんどんぶっ壊してくれた。


「そういうのもアリなんだ」「っていうかなんでもアリだな…」と思えて、文字通り世界が広がった。日本だけが居場所じゃないし、こんな風に暮らしている人が(しかも幸せそうに)いるなら、どこでだって暮らしていけそうだ、と思わせてくれるものが世界にはたくさんあった。


わたしはたぶん、そういう「自分の枠をとっぱらって自由な思考を手に入れたくて」世界を旅したんだと思う。








本の中で、スペインのバルセロナについて書かれている。スペインは財政危機で苦しんでいると言われているが、堀江さんが行ったときにはそんなことはあまり感じず、現地の人は楽しそうに過ごしていた、ということだった。


わたしも去年バルセロナへ行ったとき、同じことを感じた。地元の人たちが平日の昼間っからゆったりとビーチに寝転ぶ姿からは「財政危機」の焦りや不安は感じられなかった。みんな平和で幸せそうだった。




バルセロナで仲良くなった日本人の女の子、里沙ちゃんからおもしろい話を聞いた。それは、里沙ちゃんがよく行くバルに来る、お金のない老夫婦の話だ。彼らはお金がないにもかかわらず度々バルへ来て、他の客に食事をおごってもらうらしい。そして彼らは、とても幸せそうなのだそう。


その話を聞いて衝撃を受けた。日本だったらちょっと考えられないような話だ。まず「お金がないのにバルへ来ておごってもらうなんてけしからん!」と怒る人がたくさんいるだろう。でもバルセロナでは、それが普通のこと(かどうかはわからないけれどひとつの生き方)として通用している。


しかも彼らが幸せそうだということに驚いた。ほんと、「どう生きるか」よりも「どういう心で生きるか」なのだなあと考えさせられた。


他にも、たくましい物乞いの話しを聞いたり実際に見たりもした。里沙ちゃんも言っていたけれど、彼らの生きる力は本当にすごい。自分たちの現状を悲観するでも拗ねて内にこもるでもなく、平然と生きている。わたしたちも見習いたいなあと思った。




バルセロナに滞在中は、「爆竹祭り」にも遭遇した。正式にはサン・ジョアンという夏至を祝う古くからのお祭りなのだけど、爆竹を夜中まで打ち鳴らして祝うことから爆竹祭りと呼ばれているのだそう。


祭りは大盛り上がりで、いたるところで夜中じゅう爆竹が打ち鳴らされていた。その他にも、夜中にオペラを大合唱する若者たちに遭遇したりして、迷惑ではあったけれどなんだか笑ってしまった。彼らは本当にタフでクレイジーで陽気で、そういう彼らの気質がわたしは好きだなあと思った。




話しは変わるけれど、本の中ですごく好きな部分がある。



僕がずっと前から言い続けている、「好きなことを好きなだけやる」生き方が、より明確に価値を持つことになるはずだ。国境や言語など、かつては乗り越えるのが困難だった壁が取り払われていくことで、あらゆるチャレンジが容易になっていく。 「イヤなことを我慢して努力している」人が評価される時代は終わりだ。 「好きなことをしている人がビジネスでも人生でも、いちばん強い」時代へ、日本も移行するだろう。

未来は、いいことずくめだ。

世界も日本も勝手に変わっていく。君も好きにしたらいいのだ。僕たちを不自由にする「国境」は頭のなかにある。



わたしたちの身動きをとれなくしているのは、すべては自分の「思い込み」。わたしたちはもっともっと自由になっていい。


「◯◯だからできない」「◯◯がないからできない」というのはすべて幻想で、飛び込んでみたら案外できちゃった、みたいなことってすごく多い。というかそういうことばかりだと思う。テクノロジーの面でもそうだし、精神的な意味でもそう。


「◯◯だからできない」というのは、やらない言い訳でしかなくて、もう、物理的にも「できないことが少ない」時代になっちゃっているから、もうやりたいことがあったら、やるしかないんだと思う。



わたしは世界をまわったとき、十分な資金はなかったけれど、偶然出会った人に泊めてもらったり食事をご馳走になったりして、行きたいところへはすべて行くことができた。「お金がないとやりたいことができない。行きたいところに行けない」というのも幻想なんだとわかった。



今月の26日からニューヨーク、ロサンゼルスへ行く。やりたいことをやるために。片道切符しか買っていないし、あまりお金も貯めていないのだけど、なんとかなるだろうと気楽に考えている。きっとなんとかなるんだと思う。あまり計画が立てられない性格だから、行き当たりばったりでなんとかしたい。




「これからは好きなことをとことん突き進む人が成功する」と言われたら、どう思うだろう?わたしはすごくわくわくする。だって、そんなのって最高じゃん!


すごいスキルがあるわけでもないし、ビジネスの経験もない。英語だっていまいちだけど、世界をまわって世界のことを知るのが大大大好きなので、これからもそうやって好きなことを追いかけて生きていきたい。そしてたくさんのことを発信したい。


好奇心とわくわくが、わたしのすべての原動力だから。
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4年ほど前に、盲腸と卵巣の手術で10日間ほど入院したことがある。そのとき、「自由に本を読んだり映画を観たりできるのは、本当に幸せだなあ」と思った。


わたしは本を読むことと映画を観ることが好きなのだけど、入院中は本屋に行くこともレンタルショップに行くこともできないので、読みたい本を読むことも、観たい映画を観ることもできなかった。


本を読んだり映画を観たり、そんな「普通の日常」「当たり前にできること」が、入院中は「したくてもできないこと」だった。




できなくなって初めて、どんなにそれが幸せなことだったか気づく。そんな経験はよくあることだけど、いざできるようになって、その状況に慣れてしまうと、とたんにありがたみがなくなって、慣れて、幸せなことだっていう認識がどこかへ飛んで行ってしまう。


でも、「できなくなってから気づく」ってことをいつまでも繰り返していたら、いつまでたっても幸せになれない。「あの頃はよかったなあ」なんて、過去を懐かしむことしかできない。


だから、「今できること」に集中して、それができる喜びを感じて、今を味わいつくして生きていきたい。それができれば最強だと思う。未来を思うでもなく、過去を懐かしむでもなく、今を味わいつくして生きる。それが今のわたしのテーマ。 
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わたしたちは、生まれたときはまっさらだった。なんの価値観も、偏見も、善悪の判断もない、すべてをありのままに見るまっさらな状態だった。


だけど少しずつ、親や家族、友達などの周りの人や、メディアなどの影響を受け、価値観や善悪を取り入れていく。そして少しずつ「◯◯してはいけない」「◯◯しなくてはいけない」という固定概念に縛られていく。



価値観や善悪の判断を身につけていくのは、成長する過程で必要なものだけど、固定概念は生きる上で足かせになってしまう。固定概念が重く足を縛り付けていることで、羽を持っていても自由に空を飛び回ることができない。結果、やりたいことができない、行きたいところへ行けない、生きたいように生きられない、ということになり、息苦しくなる。



わたしたちは成長とともにいろんなものを吸収していくけれど、ある地点から、それらの身につけてきたものたちをそぎ落としていく時期が訪れる。少しずつ、時間をかけて、張り付いてしまった固定概念や、偏った考え、当然だと思っていた常識などを、そぎ落として本来の自分に戻る作業が必要。





長年かけて身につけたガチガチの価値観や偏りだから、もちろんそれらを手放すのには時間がかかる。だけどそぎ落として本来の自分に戻ろうという意志があれば、少しずつ、少しずつ、ポロポロと落ちていくのを感じることができる。



身につけてしまった、価値観・偏見・善悪・固定概念・常識などの足かせ・鎧を身動きをとれなくする鎧を剥がしていけば、すごく楽に生きられる。


「◯◯をしなければいけない」
「◯◯をしてはいけない」
「◯◯をすべき」
「◯◯をしたほうがいい」

これらのカンチガイから解放されたその先にあるものは、「やりたいか、やりたくないか」ただそれだけ。



わたしたちは、ただただやりたいことをやり、やりたくないことをやらない。人生はただそれだけなんだと思う。


まだまだわたしには、そぎ落としたい凝り固まったものがたくさんある。何年かかるかわからないけれど、少しずつそれらを手放して、自由になりたいと思う。
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いろいろあって、ここ最近ほとんどものを食べなくなった。完全な不食じゃないけれど、食べる量は今までの10分の1くらい。


無理して食べないようにしているわけでも、我慢しているわけでも、これだけしか食べない!と決めているわけでもなくて、カラダの声に従った結果、この量になった。




以前から感じていたのだけど、わたしはあまりお腹が空かない。すごく燃費効率の良い身体なんだと思う。人の1食の量で十分に1日過ごせるし、なぜみんなそんなに1日にがっつりと何食も食べられるのか不思議だった。


もちろん食べようと思えば人並みに食べられるけど、基本お腹が空かない。朝ごはんを食べたら夜まで空かないし、お昼ご飯を食べたら次の日まで空かない。


わたしはもしかしたら、原始時代や飢餓時代など、食べ物が不安定のとき長く生きられる、生命体としては優秀なカラダのつくりなのかもしれない。 でも現代社会では、その体質は問題だった。


美味しいものがいつでもどこでもカンタンに手に入るこの時代は、刺激と誘惑だらけ。我慢が苦手なわたしは、目の前に食べ物があればついつい手を伸ばしてしまうし、ちょいと小腹がすいたら家の冷蔵庫をのぞいてしまう。何度も。


もともと少しの食べ物で十分な体質なのに、それ以上に食べてしまえば当然太る。なのでわたしの身体にはもれなく贅肉がついてしまった。 贅肉がつくのは、必要以上の栄養を摂り過ぎて消化しきれなかったから。いざ食べられなくなったときのためにエネルギーを蓄えておこうとする身体の機能。


ということはいま、わたしの身体にはありあまるエネルギーが蓄えられているということになる。つまりわたしは別に食べなくてもすでにエネルギーを持っているということ。


「食べないといけない」という思いこみがあるだけで、別に食べなくてもいいんだ。だってたくさんエネルギーを蓄えているんだから。




「食べないと元気が出ないよ」という人がいる。けれどそれは完全に間違いで、余分な脂肪を蓄えていながらさらにエネルギーを摂取するのは、ただ刺激を求めているだけ。身体の欲求ではなく、単なる欲望にすぎない。


わたしはさっきも言ったけれど、「食べない」と決めたわけじゃなくて、「お腹が空くまで食べない」と決めてみた。そうしたら思いの外お腹が空かなくて、結果として食べる量が10分の1くらいに減った。



もう本当に、お腹がぜんぜん空かない。悲しいくらいに。「あ、空いたかな?」と感じることはあるけれど、「本当にお腹が空いているのかな?」と身体に聴いてみると、答えはノー。偽の空腹感は10分もすれば忘れてしまう。


だから身体の声を聞いて過ごしたところ、1日の食事がオレオ1枚とゆで卵1つ、なんていうことになってしまっている。 (そんな食生活になって10日目の今日は、少し量が増えて、鶏肉1切れとオレオとベビーチーズ1切れに増えている)



はじめの3日間は辛かった。辛かったというか、ふらふらして元気が出ず1日中寝ていた。普段摂っていのエネルギーが体内に入ってこないため、エネルギーを温存しようとする身体の防衛本能からなのか、冬眠に近い状態になり、寝ても寝ても眠たかった。


でも4日目から、次第に楽になっていった。多少立ちくらみはするものの、普通に動ける状態になった。そして1週間を過ぎたあたりからはいつもと変わりない状態になり、そして10日目の今日、すごく身体が軽くなているのを感じる。


いつもはぜぇはぁ言っている階段を、2段飛ばしで小走りできるほど元気いっぱい。お酒の量も減って、体重も減っている。でも「痩せた」というより、この10日間で「むくみが取れてスッキリした」という感じ。


具体的な変化としては、

シャツのボタンを留めるとき、余裕ができたのを感じる。腰に手を当てたとき、肉の厚みが薄くなっていることに驚く。朝起きると身体が軽い。心が安定している。




今までわたしはいったいどれほど必要のないエネルギーを摂っていたんだろう…。ぜんぜん必要じゃなかったのに、必要なことにして、必要なんだと思い込んで摂っていたエネルギー。それらはもれなく余分な脂肪になり、身体に蓄積されていたんだ…。はあ。


 



でも以前のわたしは、「食べないなんてありえない」って思っていた。食べることが大好きだった。


でもあまり食べなくなって、今まで「本当に味わって」食べていなかったんだなあということに気がついた。だって今は、少しの食事で、すごく味わって幸せを感じながら食べられているから。前の食事より数倍おいしく感じる。





まだまだ始めたばかりだから、また変化があるかもしれないけれど、今のところは食べなくても元気ですごしています。




 
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