カテゴリ: 兄が殺されてから

2012年9月16日、兄が傷害致死で殺された。享年31歳だった。


当時20歳と21歳の犯人の男ふたりは、今刑務所にいる。



あの出来事から今に至るまでのわたしの心境や、わたしたち家族に起こったことを書いていこうと思う。







時間を命と捉えるということ。自分の人生を生きるということ。


わたしは、時間=命だと思っている。わたしたちは、命が尽きる日に向かって歩いている。今この瞬間がカウントダウン。刻一刻と、最期の瞬間に近づいている。「だから精一杯生きよう!」ということではない。精一杯生きても、生きなくてもいい。ぐだぐだするのが好きなら、ぐだぐだしたっていい。大切なのは、他人の人生を生きる時間を極力少なくしていくこと。

わたしたちは、知らず知らずのうちに他人の人生を生きている。たとえば会社で働きながら、やりたくない仕事をしている時間や、行きたくない飲み会に付き合いで参加している時間などがそう。やりたいことをやらずに、やりたくないことをしている状態。

自分の人生を生きるというのは、自分の意思に従って行動しているときだ。

自分の意思に従って行動し続けた人生はきっと豊かだ。そうなるには、勇気が必要だと強く感じる。「安定」を捨てる勇気。安定を求めた先に自由意志を行使できる環境は存在しない。「安定」には「制約」が付いて回る。

わたしはいつだって、自分がやりたいことだけをやって生きていきたい。それがわたしの生まれてきた意味だと強く思う。やりたいことをやらずに、生きている意味があるのだろうか。好きなことを追求した結果、お金がなくなって食べられなくなって死んだってかまわない。

自分の意思を押し殺して、やりたくないことを続ける人生なんて、死んでいるも同然だ。


「お前は自由に生きろ」という父の言葉がわたしを支えている。家族にそう言ってもらえるわたしはとても幸せだ。仕事を辞めて世界旅行へ行くという決断を「行ってこれば」の一言で終わらせてくれる父。すごく感謝している。

高校を中退するときも、新卒で始めた仕事を辞めるときも、一人暮らしをするときも、ビジネスを始めるときも、失敗して舞い戻ってきたときも、何も言わず、わたしの好きなようにさせてくれた父。

実家に戻っていい?と聞いたときに、お前の家なんだからいいに決まってるだろうと言ってくれた父。わたしが挑戦し続けられるのは、父のおかげ。わたしがやりたいことを追求できるのは、父のおかげ。

わたしができる親孝行は、わたしの人生を思いっきり楽しむこと。


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もうすぐ世界旅行!心からわくわくしている。今日もわたしは、自分の人生を生きる。

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2012年9月16日、兄が傷害致死で殺された。享年31歳だった。

当時20歳と21歳の犯人の男ふたりは、今刑務所にいる。


あの出来事から今に至るまでのわたしの心境や、わたしたち家族に起こったことを書いていこうと思う。






2012/9/19



お通夜、葬儀はバタバタしていて、悲しみを味わう時間がなかった。

参列者が帰り兄の棺だけが残された葬儀場で、父がひとり頭を抱えていた。わたしはその背中から目を離すことができなかった。あのときの父の後ろ姿は、今も忘れることができない。


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父は兄が運ばれた病院に駆けつけて兄の死を看取った。そのとき父はどんな気持ちだったのだろう?医師は、家族が許可を受けて心臓マッサージをやめる。息子の死を認め、救命措置をやめる許可をする覚悟とはどれほど辛いものなのか、わたしには想像もつかない。

母に兄の死を知らせる電話をするときの父は、どんな気持ちだったのだろう?「優が死んじまった」という悲痛な叫びは、今も母の耳に残っているだろうか。



父は約5年前、30年以上働いた会社を定年退職した。1〜2年のんびりした後、週3日ほど深夜のスーパーで店長の代理をする仕事を始めた。

30年以上、機械一筋で働いた父だ。スーパーという全くの異業種では日々新しい発見の連続で楽しかったらしい。聞かれてもいないのに嬉々として仕事の話をしていた。しかし兄が死んでから、父は仕事をやめてしまった。



父には信一という名の弟がいたが、29歳のときに交通事故で死んだ。信一おじさんが死んだのはわたしが生まれる前だったから、どんな人かはわからない。祖母の話によると、優秀だったそうだ。父より社交的で、友達も多かったらしい。

弟と息子。父は二度も大切な人を失っている。せめてわたしだけは健康で生き続けたいと思う。生きているだけで人は価値があり、その存在自体が誰かのよろこびになる。

父はわたしに「お前は自由に生きろ」と言った。その言葉は、いつもわたしの勇気づけ励ましてくれる。わたしはその言葉のおかげで自分という存在に絶対的な肯定感を持てているような気がする。

父が40歳近くになって生まれた始めての女の子がわたしだ。父は感情を表に出す人ではないから、甘やかされて育った記憶はないが、わたしが決めたことに口を出したことは今まで一度もない。わたしの決断にいいも悪いも言わず、否定もしなければ応援もしない。それは放任ではなく、父の愛情なのだと思う。

父の後ろ姿に、わたしは自分の人生を生きようと決めた。




続く。
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2012年9月16日、兄が傷害致死で殺された。享年31歳だった。

当時20歳と21歳の犯人の男ふたりは、今刑務所にいる。


あの出来事から今に至るまでのわたしの心境や、わたしたち家族に起こったことを書いていこうと思う。






2012/9/19



通夜と葬式は、名古屋市内にある葬儀場で行った。

兄の友人、友人の家族、同僚、息子たちが通う小学校・幼稚園の先生、わたしの同僚など、本当にたくさんの人が駆けつけてくれた。いちばん大きな会場にも入りきらず、廊下まであふれでるほどだった。

兄が死ぬ直前まで一緒にいたという友人は、棺におおい被さるようにして泣き崩れていた。その姿を見てどうしようもなく泣けてきた。

以前母方の祖父の葬儀で、出棺のときに祖父の友人が「今までありがとな〜!」と叫んだときも、涙を流したことを思い出した。別れの場でわたしがなによりも泣けるのは、大切な人のことを大切に思ってくれている人がいることを知るときだ。

兄の友人も同僚もみんな泣いていた。嗚咽を漏らす声や鼻水をすする音がそこらじゅうから聞こえてきた。兄はぶっきらぼうで表現下手な人間だったから、周囲の人たちとうまく人間性を築けていないのではいかと思っていたけれど、それは間違いだった。兄は多くの人間から愛されていた。もっと違う機会に、そのことを知りたかった。







わたしがはじめて冷たくなった兄と対面したのは、葬式場の家族控え室だった。当たり前だけど死んでいて、死んだ人が着る服を着ていた。

兄は、道端で倒れているところを車で通りがかった人に発見されて、救急車で運ばれた。死亡が確認され、変死だったため司法解剖へ回された。葬式の日はまだ解剖結果が出ていなかった。暫定的な死因は、転倒して頭を打って脳出血を起こし、自分の血で窒息死したのではないかということだった。ニュースもそう報じていた。

脳を解剖するのに頭蓋骨を外したらしく、髪の毛はすべて剃られ、その代わりに頭に白い布が尼さんのように巻かれていた。髪型を気にする人だったので、つるっぱげにされたことにきっと本人は納得がいっていないんだろうなあと思った。

兄にふれると、冷たいゴムみたいな感触だった。なんだか人間のものではないような感覚だった。厳密にはもう人間ではないのかもしれない。そのあたりの境界線はわからない。

兄の唇に傷があった。後頭部を打って死んだのに、なぜ唇に傷がつくのか疑問だったが、考えてもわからないので考えるのをやめた。このときはまだ、兄を殺した犯人がいるとは思いもしなかった。



兄の息子の蓮(れん)と琉(るい)は当時8歳と3歳だった。弟の琉は父親の死をよくわかっていなかったけれど(でも悲しいという感覚はちゃんとあった)、兄の蓮は理解していた。

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蓮は、父親の遺体に触れるのを嫌がっていた。蓮は葬儀場に着いたときから父親の遺体を見ようともしなかったし、普段となにも変わらずに振舞っていた。そのときのわたしは気づかなかったけれど、蓮はずっと泣きたい気持ちをこらえていて、がんばって普段通りに振舞っていたのだった。

父親の遺体に触れたとき、抑えていた気持ちが決壊して蓮は目を真っ赤にして泣いていた。男の子だし、お兄ちゃんだし、なんていろんなことを考えていたのだろうか。小さな体でどれだけのことを背負っているのだろうと思うと、わたしは胸が熱くなるような痛くなるような、なんとも言えない気持ちになった。


蓮がもう一度だけ泣いたのは、葬儀中に棺のまわりに親しい友達や家族が集まって最後のお別れを言うときだった。兄の友人に抱きしめられながら蓮は泣いていた。それでも、声をあげて思いっきり泣いているわけではなかった。悔し涙を流すように、口を食いしばって泣いていた。

そして、最後のお別れを終えると自分の腕でしっかりと涙をぬぐった。

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わたしはこの日から今日まで、蓮が泣いた姿を見たことがない。蓮は、小さな体をした立派な男だ。



続く。
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2012年9月16日、兄が傷害致死で殺された。享年31歳だった。

当時20歳と21歳の犯人の男ふたりは、今刑務所にいる。


あの出来事から今に至るまでのわたしの心境や、わたしたち家族に起こったことを書いていこうと思う。







2012/9/17



兄が死んだ次の日のことは、正直よく覚えていない。司法解剖があるとかで、遺体と対面することができなかった。兄が死んだという実感がない中で、家で1日を過ごしていた気がする。

そのころのわたしは、新卒で入社したアパレル会社で販売員をしていた。

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お葬式が終わるまでの何日間かは、休ませてもらうことにした。もらえた忌引休暇は2日間だった。たったの2日。家族が死んだのに、3日目から働かせるのかこの会社は…と愕然としたのを覚えている。

会社は冷たい。

規則は組織を運営する上で必要なことではあるけど、無機質で、冷たくて、愛がない。わたしが働いていた会社ははそこまで大きくなく、社長とも一緒に飲める機会があるようなところだった。面接も、社長が一人ひとりと会って1時間かけて話をして決めていた。

入社式で「家族が増えた」と社長が言っていたのを、社会人経験のない当時のわたしは「いい会社だなあ」「あたたかいなあ」と思っていた。

けれど働き始めるうちに、やっぱり会社は会社であり、社員は社員であって、家族にはなりえないのだということを知った。売上げ至上主義。上の人間は下の人間を数字で判断する。会社とは、そういうものなのだということを早いうちに悟ったわたしは、悲しいと思うでもなく、淡々と現実を受け止めていた。

兄の事件が起こったのは入社して1年半。とうの昔に会社に希望を感じなくなっていたわたしは、家族の死に2日間の休みしか認めない会社の制度に、愕然としながらも冷ややかさを感じていた。会社に自分という人間を認めてもらうには、当たり前の話だが会社に貢献しなければならない。家族が死んでショックで何日も休むような人間は、会社にはいらないのだ。

会社になにかを期待するのはむなしい。今思えばこのときの経験が、今のわたしの「組織にしばられず個として生きて行く決意」をゆるがないものにしてくれているのかもしれない。




続く。
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2012年9月16日、兄が傷害致死で殺された。享年31歳だった。

当時20歳と21歳の犯人の男ふたりは、今刑務所にいる。


あの出来事から今に至るまでのわたしの心境や、わたしたち家族に起こったことを書いていこうと思う。






2012/9/16



わたしの兄の名前は高木優。

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兄とわたしは2人兄妹で、年は6歳離れている。兄は名古屋市内のマンションで、奥さんと2人の息子と一緒に暮らしていた。息子は当時9歳と3歳で、上の子は心優しい子で、下はわんばく坊主。25歳だった当時のわたしは、岐阜県にある実家に住んでいた。

兄が死んだ日のことは、今でも昨日のことのように覚えている。その日わたしは23時頃に帰宅し、2階にある自分の部屋にいた。1階にいる母に呼ばれ、「掖済会病院 って知ってる?」と聞かれた。わたしは「知らない」と答えた。

なぜそんなことを聞くのかと尋ねると、兄が救急車で運ばれて、掖済会病院に搬送されたと警察から連絡があったそう。夜遅かったので、父がひとりで病院へ向かった。実家から病院までは1時間半くらいだ。

このとき、父も母もわたしも、あまり兄の心配をしていなかった。その日は3連休の中日で、どうせ酔っ払って路上でぶっ倒れているところを運ばれたとか、そんなところだろうと思っていた。そういうアホなことをいかにもやりそうな人なのだ。



うとうとと眠りかけていた深夜1時に、1階にいる母から電話がかかってきた。寝ぼけて電話に出ると、母は泣いているみたいだった。「お兄ちゃんが死んじゃった」と言っていた。わけがわからなかったので1階へ行くと、母が泣き崩れていた。どうやら病院に着いた父から兄の死を知らせる連絡があったらしい。

死んだといわれても、よく意味がわからなかった。まるっきり実感がなかった。死体を見たわけでもないから、何かが失われた感覚もなかった。その日は深夜の4時頃に眠りについた。意識が混乱して、眠れないんじゃないかと思ったけれど案外眠れるものだ。ショックで眠れなくならないわたしは薄情なやつだと思った。眠るまでの間、「お兄ちゃんが死んじゃった」という言葉が頭の中をぐるぐるぐるぐる回っていた。




続く。
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